九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

パニヒダを献じました~正教会での永眠者への祈りの教義について

今日は人吉ハリストス正教会で、正教会の永眠者への祈り「パニヒダ」を献じました。

9月6日に福岡伝道所に巡回した時、そこに毎月来ているウクライナ人女性信徒から、「今度の9月16日は父のエフゲニイが5年前に亡くなった日。ウクライナの教会でも父への祈りが献じられるはずだが、神父も人吉で同じ日に父にパニヒダを献じてほしい」と依頼されました。

福岡から人吉は遠すぎて、彼女自身は来られませんので、そこで私と妻の二人だけでエフゲニイ兄にパニヒダを献じたわけです。

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パニヒダ

ちなみにパニヒダとはロシア正教会での用語です。「全ての」「夜」「歌」を意味するギリシャ語の単語を組み合わせた、和製英語ならぬ露製ギリシャ語です。ギリシャでは「パラスタス」と呼ばれます。

 

パニヒダの時は麦を茹でて砂糖や蜂蜜などで甘く味をつけ、ドライフルーツやナッツなどで飾り付けをしたものを用意して、祈祷後に食べる習慣があります。この食べ物は外国では一般にギリシャ語で「コリヴァ」、日本正教会では「糖飯」と呼ばれています。

わが国では麦より米の方が入手が容易だったので、もち米で糖飯を作ることが定着しましたが、私の司牧する教会(正確には私の妻)はなるべく国際標準(?)的に麦で作るようにしています。

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糖飯(右手前)

 

さて、教会が永眠者への祈りを捧げる意味とは、「永眠者本人に対して捧げている」のではなく、「神に対する永眠者本人の祈りを生きている者が代行してあげる」ということです。

キリスト教の考えでは、人は死んでも神になりません。人はあくまでも神によって造られ、生命を与えられた存在です。その神への信仰によって、この世の死という通過点を経て、天国における復活と永遠の生命が実現していると考えます。ということは、この世で死んだとしても永遠の生命に「生きている」わけですから、その人の神への祈りが不要になることも永遠にないことになります。

しかし、この世の生者と死者との明確な違いは、死者には肉体の機能が喪失している、すなわち行為としての祈りを行うことが物理的にできないということです。

そこで、この世で生きている私たちが亡くなった本人を「代行」して、神に祈る必要があるというわけです。

 

さらに祈りとはより具体的には何かというと、神への「感謝」「讃美」「悔い改め」「懇願」の四つの要素に分けることができます。

このうち、「感謝」と「讃美」は広く万人に共有されていることですから、生きている我々だけで表明すれば十分です。しかし、「悔い改め」と「懇願」の内容は人それぞれの個別事項です。

よって永眠者本人にとっては、生前の罪の悔い改めと、神がそれを赦して天国に入れてくれるように懇願することが必須となるわけです。

これを生きている我々が、物理的に祈れない永眠者自身に代わって神に祈ってあげることが永眠者への祈り、正式な用語では「永眠者奉事」(Memorial Service)と呼ぶものです。

 

そのようなわけで、今日はウクライナと人吉とで、さらには依頼者自身もおそらく福岡の自宅でエフゲニイ兄のために祈りました。それぞれが祈っている場所は、地上での距離は遠く離れており、さらにウクライナと日本では時差があります。しかし、キリスト教では神はこの世の時間と空間を超越した存在と定義しますから、その祈りも神に一斉に届けられたはずです。

このように「いつも、どこでも、誰かのために祈る」ことが、正教会の信仰生活の基本です。この祈りの輪が自分の管轄する九州の地にもっと広がっていくよう、働き続けたいと思っています。