九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

夏目漱石の家と部屋

本日、2月9日は文豪・夏目漱石の誕生日です。

夏目漱石(1867-1916)

今日、ラジオで熊本のローカルニュースを聴きながら車を運転していたら、嬉しい報せが飛び込んできました。

2016年の熊本地震で大きな被害を受けた熊本市内の夏目漱石の家「内坪井旧居」が、被災から7年を経てようやく修復が完成し、彼の誕生日である今日、公開が再開されたのです。

 

漱石は1896年から1900年までの4年間、旧制五高の英語教授として熊本に住んでいました。

彼は4年間の熊本生活で6回も住まいを替えましたが、そのうち3番目の家である「大江旧居」と5番目の「内坪井旧居」の2軒だけが、熊本市の管理のもとに公開されてきました。

しかし、熊本地震で2軒とも被災。大江旧居は一足先に修復されて、私も12月の彼の命日に合わせて見学してきましたが、内坪井旧居の方はまだお預けの状態でした。

 

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今週末は熊本教会への巡回日ですが、残念ながら他の場所を訪問する予定を入れてしまいました。近いうちにぜひ訪ねようと思っています。

 

また、つい先日の熊本日日新聞に、漱石の別の家についての記事が載っていました。漱石が熊本で最後に住んだ「第6旧居」を熊本市が取得するとのことです。

 

これまで公開されている漱石の家は2軒だったので、私はてっきり現存しているのも2軒しかないと思ってきたのですが、もう1軒残っていたとは知りませんでした。

記事によれば、物件は2011年以降空き家で、漱石の家主の曽孫で大阪在住の方が所有していたものの、高齢のため管理できなくなり手放すことにしたそうです。

しかも、漱石の書斎が当時のまま保存され、村上春樹氏も訪ねたそうです。

この家も熊本地震で被災しましたが、村上氏らが集めた支援金で修復されたとのこと。今後、熊本市は物件を整備して一般公開する予定です。

熊本の街歩きで訪ねたい場所がまた増えました。

 

漱石は出生地も死没地も東京・早稲田であり、また『坊ちゃん』の舞台となったおかげで、たった1年しか住んでいなかった松山時代のことも有名です。それに比べると、漱石が熊本にいたということはあまり注目されていない印象を持っています。

しかし漱石が結婚し、父親となったのは熊本時代であり、また大病を発症する前で、彼が充実した日々を送っていた時期ではないかと思うのです。

また、彼の作品の『草枕』は、熊本から玉名まで徒歩旅行した時のことをベースに書かれており、彼の職業作家としての後半生に熊本時代も多少なりとも影響はあっただろうとも考えます。

熊本を代表する人物といえば何でも「加藤清正」になってしまうのですが、熊本出身でないとはいえ夏目漱石小泉八雲も注目されてほしい(そもそも清正だって尾張出身であって熊本出身ではない)と思っています。

 

さて、漱石旧居と直接関係ないのですが、漱石日本正教会の接点(間接的ですが)について触れておきます。

漱石は持病の胃潰瘍が悪化し、1910年に修善寺で静養することになりました。逗留したのは老舗の「菊屋旅館」です。

逗留中、彼は大量の吐血をして生命の危機に陥りましたが、奇蹟的に一命を取り留めました。これは「修善寺の大患」と呼ばれています。

この時の死の境をさまよった経験が、後の彼の作風に影響を与えたと言われる大きな出来事です。

 

この舞台となった菊屋旅館のオーナーは、熱心な正教会の信徒でした。

菊屋を中心とする約70名の修善寺の信徒たちは、1912年に「修善寺ハリストス正教会」を建立し、現在も教会活動が行われています。聖堂は静岡県指定文化財です。

修善寺ハリストス正教会(1912年建立・筆者撮影)

 

偶然、私自身は前職時代の最後の任地が沼津市でしたので、当時は修善寺教会での月一回の聖体礼儀に通っていました。またこれも偶然ですが、会社を辞めて神学校に入り、司祭に叙せられた時に管轄を命じられた教会の一つが修善寺でした。

つまり、信者として通っていた教会に司祭になって戻ってきたことになります。

白亜の聖堂は東欧の村から移設したかのような佇まいで、さらに周囲の風光明媚な風景も相まって、ここでの祈祷はまさに天国を思わせるものがありました。

 

漱石の大患はまだ聖堂が建つ前のことですので、漱石自身が修善寺正教会の祈祷に与ることはなかったでしょうが、漱石日本正教会の間に菊屋旅館という接点があったことは知られざるエピソードではないかと思います。

なお菊屋のオーナー家は、私がいた頃には既に信徒ではありませんでした。また、漱石が滞在していた部屋も当時は現状保存されていたのですが、宿泊客でないと見学できないということで、残念ながら私は見ていません。(宿泊料金は修善寺でも一番高い部類の宿です)

さらに今は菊屋旅館の所有者がリゾート会社に移り、屋号も「湯回廊菊屋」に変わっています。漱石の部屋もありますが、現代風にリニューアルされて(要するに見学のためでなく宿泊用の部屋になって)います。ちょっと寂しいですね。

 

漱石は文学者ですから、評価の対象は作品であることはもちろんですが、家とか部屋とか、彼の人間としての部分を探訪するのが私には面白く感じています。

熊本のハンセン病者の母 ハンナ・リデル

節分の今日、2月3日は福澤諭吉や先代の市川團十郎など、何人かの有名人の命日でもあります。

しかし、2月3日に亡くなった人物の一人として、熊本県民である私はハンナ・リデル(1855-1932)の名も忘れることはできません。

ハンナ・リデル(1855-1932)

ハンナはそれまでわが国で差別にさらされていたハンセン病患者の救済を、熊本から発信して全国レベルで展開した人物です。

肝心なのは外国出身者が、社会で差別されて苦しんでいる日本人のために、しかも様々な反対や困難に直面しても信念を曲げずに働き、最後は日本の土になったことにあると、私は考えています。

 

ハンナは英国・ロンドン郊外で退役軍人の子として生まれました。

若い頃は父親が創立した私立学校で教師をしていましたが、両親の相次ぐ死去で学校は破産し閉校。生活のために英国国教会のミッション団体であるCMS(Church Missionary Society 英国聖公会宣教協会)の宣教師となりました。

 

ハンナは35歳の時に熊本へ派遣されることになり、初めて日本の地を踏みました。そして来日直後の1891年のある日、熊本市内にある加藤清正菩提寺本妙寺」で衝撃的な光景を目にしました。

本妙寺加藤清正の霊廟(筆者撮影)


熊本城を築いた加藤清正は昔も今も、熊本で最も尊敬されている英雄です。

さらに昔は、本妙寺の清正廟に参拝すると万病が治ると信じられていたため、本妙寺の境内にはたくさんのハンセン病者が住み着いていたのです。

おびただしい数のハンセン病者が社会から見捨てられ、本妙寺にたむろしている姿を目にして、ハンナは彼らを救済するために立ち上がりました。

 

ハンナはハンセン病者が安心して療養生活を送れる施設を熊本に造ろうと決意し、本国のCMS本部に建設を要請します。しかし、なんとCMSはそれを拒否しました。

当時のCMSの考えは、ハンナを日本に送ったのは献金をくれる上流階級の人々を聖公会の信者にするためであり、ハンセン病者のような下層の日本人に使う金はない、ハンナは余計なことをしないで本業に専念しろということだったのでしょう。

日本人クリスチャンである私としては、CMSは教会としておかしいんじゃないの、と思わないでもないですが、19世紀の欧米の多くの人々は日本人を下に見ていたのであり、当時としてはCMSの方が「普通の考え」だったかも知れません。

 

しかし、ハンナは個人で募金活動を押し進め、ついに1895年11月、熊本県で最初のハンセン病療養所「回春病院」を設立しました。ちなみに病院設立後の1897年、彼女はCMSに辞表を提出し、宣教師でなく一私人として(つまり教会からの俸給はなし)活動を続けました。

彼女はハンセン病者救済という信念を曲げず、大隈重信渋沢栄一などの政財界の大物にも直談判して人脈を広げ、ついに昭憲皇太后をはじめ皇室からも支援を受けるに至りました。

以後、ハンナはこの施設で患者の療養と研究者による治療法の開発のために生涯を捧げ、1932年2月3日に世を去りました。生涯独身でした。

ハンナの事業は姪のエダ・ハンナ・ライト(1870-1950)に受け継がれましたが、日本社会が軍国主義にともなう反英米主義と弱者差別に進む中で、大変な苦難を受けることになります。それについては、後日改めて書こうと思います。

 

現在、回春病院は「社会福祉法人リデルライトホーム」となり、ハンセン病者施設から高齢者福祉事業にシフトしています。

敷地内にある「リデル・ライト両女史記念館」は回春病院の研究棟として、1919年に建てられたものです。2016年の熊本地震で被災しましたが、2020年に修復が完成して、一般公開を再開。昔の史料やハンナらの遺品などが展示されています。

リデル・ライト両女史記念館(筆者撮影)

ハンナはCMSと対立して宣教師を辞めてしまい、よって回春病院も非ミッション系ですが、彼女自身は信仰に篤かったそうです。

敷地内には聖公会のチャペルが建てられていて、今も礼拝が行われています。

リデルライトホームの礼拝堂(筆者撮影)

日本で生涯を終えたハンナとエダの遺骨は納骨堂に収められ、チャペルには墓誌が掲げられています。

ハンナとエダの墓誌(筆者撮影)

病者や障害者への差別、人種や身分による差別等々、人間社会には様々な差別があるのですが、それを乗り越えて「ハンセン病者救済」という人道のために生涯をかけたハンナ・リデルは、まさにキリスト者の鑑のような人物であり、私は尊敬しています。

今日も船舶成聖式

火曜日の瀬戸内海に引き続き、今日も船舶成聖式で出張しました。

火曜日に成聖した「カルロヴァシ」と同一の船会社の依頼により、セットで引き受けたものです。

 

なぜかこのところ船舶成聖の依頼が立て続けにあり、この半年でもう5回目です。

半年で葬儀が5件ある教会は珍しくないですが、船舶成聖の依頼は少ないかも知れません。

 

場所は熊本県長洲町のジャパン・マリン・ユナイテッド(JMU有明事業所。

この半年の船舶成聖5件のうち、3件が同じ事業所です。

担当の人々とすっかり顔なじみになってしまいました。

 

10時半に現地に到着して、勝手知った乗船用エレベーターで新船「オリンパス」に乗船。ブリッジ(操舵室)に上がって成聖式の設営をしました。

JMU有明事業所の景色

新船「オリンパス」の甲板

成聖式の設営

11時に来賓たちが到着し、岸壁で「命名式」が行われました。

命名式。風船が飛ばされている。

命名式が終わると来賓たちが船に上がってくるのが見えます。

来賓たちの乗船

当然ながら、火曜日の成聖式と同じ来賓ですので、3日ぶりの再会です。

 

一通り祈祷が終わり、機器類に聖水をかけて成聖した後、オーナーの関係者が船の汽笛を3回鳴らすのがお決まりの「セレモニー」です。理由は知らないのですが、これは女性の役目と決まっています。

オーナーの親族の女性が汽笛を鳴らす

 

来賓たちが帰るのを見送って、私も正午に下船してJMUを後にしました。

 

さて、今日のように熊本県北部に出張し、時間がある時によく立ち寄るのが和水町の酒蔵「花の香酒造」です。JMUからは車で40分くらいです。

花の香酒造(熊本県和水町

この酒蔵は2019年秋の着任直後、当時のNHK大河ドラマの主人公で日本マラソンの父・金栗四三の生家を見学に行った時、近くにあったことで初めて知りました。

生産量が少なく、そのため置いている飲食店も少ないので、九州の外ではあまり知られていないのですが、ここのお酒を買って飲んでみたらとても美味しかったので、すっかり気に入りました。私の評価としては、熊本県産の酒で一番美味しいと思います。

さらにこの蔵は地元・和水町での酒米栽培から手掛けていて、地産地消にもこだわっています。酒の味に加えて、そういうオリジナルな酒造りへのこだわりも私の気に入っているところです。

しかし、ここの酒を取り扱っている酒店は少ないので、私は祈祷の機会を見て、直接酒蔵まで買いに来ているのです。

 

今日は2022BY(醸造年度)の新酒を買って、人吉に戻りました。

出張の時は、その土地のいろいろなものを見学してくるようにしていますが、美味しいものとの出会いも楽しみであり、それがやりがいにもなっています。

熊本教会に来て初めての洗礼式

今日は熊本ハリストス正教会に巡回。降誕祭の聖体礼儀を執り行いました。

1月15日に降誕祭とはずいぶん遅いように思われてしまいますが、一人で4教会を兼務している以上仕方ありません…


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聖体礼儀の前に、88歳のKさんの洗礼式を執り行いました。

私は九州に着任してから、福岡と鹿児島では洗礼を行っていますが、熊本教会では初めてです。

Kさんは執事長の奥さんですが、代々の信徒家庭に生まれた執事長との結婚後も60年近く洗礼を受けずに来ました。

しかし私が着任してから教会に通うようになり、ついに洗礼を決意されたのです。

私は司祭になってから14年で、既に100人以上に洗礼を授けてきましたが、今回は長い人生を歩んで来た方を信仰に導くことができて、とりわけ嬉しく思いました。

洗礼式の設営

洗礼を授ける

正教会では洗礼の後、洗礼盤の周りを三回まわる

 

降誕祭に加え、洗礼式もあっておめでたい日となりましたが、コロナ対策で祈祷後のパーティーは熊本教会でも自粛です。

しかし、それでは味気ないので、教会近くの料理屋に頼んで弁当を作ってもらい、さらにベーカリーでデニッシュを買ってきて、それらを参祷者に配りました。

参祷者に配った弁当とデニッシュ

 

コロナ禍は収束どころか拡大の一途で、教会活動も制約されっ放しなのですが、今日は熊本教会で十数年ぶりの洗礼式ということで、少しは明るく前向きな日曜日になったような気がしました。

九州の正教会は小さな牧群ですが、今後も地道に前進していきたいと思います。

熊本に巡回 夏目漱石の足跡探訪

今週末は熊本ハリストス正教会に巡回しました。

熊本ハリストス正教会での聖体礼儀


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K執事長と結婚して60年近くも連れ添い、今月で米寿を迎えた妻のM子さんが来月に洗礼を受けることが決まったのですが、今日はさらに別の80代女性のOさんから洗礼の申し出がありました。

Oさんも幼児洗礼のご主人と結婚してから50年以上、熊本ハリストス正教会に熱心に通ってきたのですが、熱烈な信者だったお姑さんとの確執が過去にあったようで、洗礼を受けることだけは拒み続けていました。

ご主人は2年前に亡くなりましたが、今日になって「自分も信者として夫と同じ墓に入りたい。だから洗礼を受けたい」と初めて言ったのです。

M子さんにもOさんにも、こちらから洗礼を受けるように勧めたことは一度もないのですが、純粋に自分の意思で「自分の終末を正教徒として迎えたい」(まだお元気ですが)と決心したことに、神の導きを感じます。

そして私自身も九州に来てわずか3年で、過去数十年も洗礼をためらい続けていた人たちの入信をお手伝いすることができて、感慨深いものがあります。

 

さて一昨日は夏目漱石の命日だったので、昨日は漱石の足跡をたどろうと思い、彼の旧居を訪ねてみました。

漱石は旧制五高の教授だった熊本時代の4年間で6回も転居しました。その6軒の家のうち、3番目の住まいだった「大江旧居」と5番目の住まいだった「坪井旧居」の2軒だけが現存しています。

もっともそれらの家は2016年4月の熊本地震で大きな被害を受けました。坪井旧居の方はまだ修復中ですが、大江旧居は1年ほど前に修復が終わり、一般公開されています。

かつて大江旧居があった場所は、なんと熊本ハリストス正教会の隣のブロックで、教会からは100mも離れていません。しかし、今の地権者の病院の増築工事にともない、1972年に水前寺公園に移築されて今に至っています。

移築されていなければ「うちの教会は夏目漱石の家のそばですよ!」と宣伝できたのですが…

夏目漱石大江旧居

入館は無料で、内部には当時の史料が展示されています。一見の価値があります。

熊本時代の漱石(31歳)の写真

漱石が詠んだ俳句の直筆の短冊

漱石の作品の初版本

漱石が生涯最後に書いた漢詩(1916年11月20日


漱石旧居を見た後はレトロな市電に乗り、熊本城下の下町の「新町」へ。


ここにある長崎次郎書店は明治7(1874)年創業の、熊本で一番古い書店です。

今の建物は1924年に建てられ、国の有形文化財に指定されています。

長崎次郎書店

江戸時代までは古物商だったそうですが、明治新政府が学校教育を導入したことにともない、教科書の販売業に商売替えし、今も店を続けています。

森鴎外はここで本を買っていたと記しているそうです。漱石自身はこの店について言及していませんが、明治時代に熊本で大きな本屋といえば長崎次郎書店と決まっていたのですから、きっと漱石もお得意さんだったに違いありません。

 

書店の2階は実に趣のある喫茶店になっていて、1階の書店で買った本を読めるようになっています。

私も熊本時代の漱石ラフカディオ・ハーンについて書かれた本を買って、小一時間読書を楽しみました。

長崎次郎書店の2階で読書

歴史上の有名人と同じ空気を吸っているような感覚で、いい気分で午後のひと時を過ごすことができました。

漱石と八雲 熊本と早稲田

本日、12月9日は文豪・夏目漱石(1867-1916)の命日です。

漱石はわが熊本とも縁の深い人物です。

夏目漱石(1867-1916)

 

1893年東京帝国大学英文科を卒業した漱石は、東京高等師範学校(現・筑波大学)、旧制松山中学(現・松山東高校)の英語教師を経て、1896年に旧制第五高等学校(現・熊本大学)に英語科教授として赴任しました。

ちなみに五高での彼の前任者はラフカディオ・ハーン(1850-1904。後の小泉八雲)でした。

ラフカディオ・ハーン小泉八雲

 

彼の松山時代は小説『坊ちゃん』に描かれて今も有名ですが、実際にいたのは1年だけでした。それに対し、熊本での五高時代は1900年に英国に留学するまで4年間続きました。

彼は熊本に着任するにあたって官僚の娘と結婚しましたが、妻は慣れない熊本での生活でヒステリーとなって自殺未遂を起こし、漱石自身も癇癪持ちな性格に加え神経衰弱(当時の病名。今日のうつ病)の病歴もあって、幸せな家庭生活とは言えなかったようです…

 

その代わり、彼は東大時代の同窓生の正岡子規の影響で、俳句をたしなんでいました(彼のペンネームの漱石はもともと俳号)。そして彼は熊本で俳人として名を挙げたのです。

1898年、漱石から俳句の指導を受けていた寺田寅彦(後の地球物理学者)ら五高の学生が俳句団体「紫溟吟社」を立ち上げ、漱石が主宰となりました。漱石の五高離任にともなって、この紫溟吟社は1902年に活動を停止してしまいましたが、それまで九州の俳壇を代表する団体だったそうです。

 

漱石が教鞭を執った旧制五高の校舎は、現在も熊本大学のキャンパス内に「五高記念館」として残っています。「ナンバースクール」と呼ばれた一高(現・東大)から八高(現・名古屋大)までの8つの旧制高校のうち、現在も校舎が残っているのは五高だけです。

五高記念館は1889年に建てられ、いまは国の重要文化財に指定されていますが、2016年4月の熊本地震で被災し、修復のためずっと閉鎖されていました。

しかし今年4月、ようやく修復が完成して一般公開が再開されたので、10月の熊本出張に合わせて訪ねてきました。

重要文化財熊本大学五高記念館(旧制五高本館)

館内には明治30(1897)年10月の開校記念日の式典で、漱石が教授総代として読み上げた祝辞の原稿が展示されています。もちろん本人の直筆で、署名も本名の「夏目金之助」と書かれています。

漱石が読んだ開校記念日の祝辞の原稿

 

さて、漱石1903年に英国留学から帰国し、一高と東京帝大の英語講師に着任しました。それに伴って東大講師を解任されてしまったのは、何と五高時代の前任者だったラフカディオ・ハーン改め小泉八雲でした。何という因縁でしょうか。

しかし、評判の良かった八雲の講義に比べて、漱石の講義はつまらないと学生たちの評判が悪く、小泉留任運動が起こるなど、夏目講師の評判は散々でした。

さらに、漱石から叱責を受けた学生の藤村操が、日光の華厳の滝に投身自殺するという事件が起きて社会問題となりました。遺書によれば自殺の直接の原因は漱石とは無関係だったものの、「夏目が藤村を自殺に追いやった」という誹謗中傷が相次ぎ、ついに漱石の神経衰弱が再発してしまいました。

 

しかし、皮肉なことにこの事件が文豪・夏目漱石を生み出すことになりました。

俳人高浜虚子から神経衰弱の治療の一環として小説の創作を勧められ、彼は処女作『吾輩は猫である』を書きました。1905年1月、これを『ホトトギス』に掲載したところ大ヒット。一躍人気作家として世に知られました。

翌年発表した『坊ちゃん』も大ヒット。ついに1907年、教職を辞めて朝日新聞に入社し、同紙専属の専業作家として連載小説を生涯にわたって書き続けたのです。

 

さて本日、私の母校・早稲田大学の公式ツィッター漱石の命日であることがツィートされました。漱石は早稲田とも縁が深い人物だからです。

 

漱石は江戸牛込馬場下、現在の東京メトロ早稲田駅の辺りで生まれました。もちろん早稲田大学のキャンパスのすぐそばです。

生家跡には漱石生誕100周年を記念して、1966年に「夏目漱石誕生の地」の石碑が建てられています。

夏目漱石誕生の地の石碑

1966年に建てられたということは、私の在学中には当然あったのですが、恥ずかしながら当時は全く気がつきませんでした…

 

また、漱石は東大在学中の1892年に、学費を稼ぐために東京専門学校(後の早稲田大学)で英語を教えていました。

 

さらに専業作家となった1907年、彼は生家近くの早稲田南町に家を購入しました。この家は「漱石山房」と呼ばれ、亡くなるまでの9年間、創作の拠点となりました。いまの早稲田大学戸山キャンパスの近くです。

漱石山房での夏目漱石

漱石山房は空襲で焼失しましたが、跡地は戦後に「漱石公園」として整備されました。

さらに2017年9月、漱石生誕150年を記念して新宿区が漱石公園に「漱石山房記念館」をオープンさせ、今に至っています。残念ながら私自身は未訪問なので、東京に行く機会があったら訪ねてみようかと思っています。

漱石山房記念館

さて1903年漱石の東大赴任とともに解任されてしまった小泉八雲は、早稲田大学に転職して英語を教えました。しかし、残念なことに翌年9月、54歳で急死してしまいました。

つまり小泉八雲は現職の「早稲田大学教職員」として生涯を終えたのです。

ちなみに八雲の墓も漱石の墓も、偶然ながら同じ雑司ヶ谷霊園にあります。どこまでも一緒ですね。

 

夏目漱石小泉八雲という二人の大文学者が熊本と早稲田という同じ接点で、今の私ともご縁があるということに不思議なめぐり合わせを感じています。

船舶成聖式 造船所の常連に?

今日は長洲町のジャパン・マリン・ユナイテッド(JMU有明事業所で、ギリシャ船籍の新造船の船舶成聖式を行いました。

こちらの造船所では9月にも成聖式を行っています。それ以前に行った分も含めると、同じ事業所で3回目です。

もう常連かもしれません。

 

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10時半に現場に着き、乗船。船名は「ヘリオス」です。

係留場所は9月の時と同じ。もう行き慣れているので、尋ねなくてもすぐたどり着けます。

新船「ヘリオス」に乗船

現場監督の方にブリッジ(船橋)へ案内してもらい、祈祷の設営。

銀色の3枚のイコン(キリストのイコン1枚、ミラリキヤのニコラオスのイコン2枚)は、船内に飾るために船長が用意したものです。

祈祷の設営

岸壁での「命名式」が終わり、船主ら幹部が船内に来てから祈祷を始めるようにとの指示でしたので、1時間半近くブリッジで待機。海を眺めてのんびりしていました。

山奥の人吉にいると、普段海を見る機会が全くないので、こういう時間もなかなか良いものです。

船からの眺め。海の向こうに見えるのは雲仙普賢岳

突然、船の汽笛が鳴らされ、花火が打ち上げられたので下を見ると、命名式が終わったところでした。

命名式の終了。たくさんの風船が上げられている。

甲板上で船員たちが整列して出迎える中を、船主たちがエレベーターで昇ってきました。

船主たちが甲板上へ。

彼らがブリッジに入って来るのを待ち、成聖式を開始。

待ち時間は1時間半でしたが、祈祷は15分で終わりました…

 

ちなみに、これまで成聖したギリシャ船籍の船では、船員はフィリピン人やインドネシア人など、東南アジア人ばかりでしたが、この船の船員はみな白人で、ロシア語で会話していました。彼らがロシア人なのかウクライナ人なのか不明ですが、どちらの国であれ今はデリケートな情勢なので、余計なことを尋ねるのは控えました。

 

前任地では船舶成聖の依頼を受けたことは一度もなかったのですが、九州に来てからは3年間でもう6回目です。

普段の牧会では教会に所属している信徒しか相手にしていないので、それだけでは人間関係がどうしても広がりません。従って、このように教会外部からの依頼で祈祷をお引き受けすることは、いろいろな方たちとの接点ができ、司祭職を続けていくうえで有意義だと思っています。

常連(?)になったこちらの造船所から、また次の依頼が来ることを楽しみにしています。