先週末は東京に出張していました。
10月22日(日)にニコライ堂で開催された、セラフィム新府主教の着座式(一般でいう就任式に相当)に陪祷するためです。
2000年に行われたダニイル前府主教の着座式の時は、私は一般信徒として参祷し、ニコライ堂の人混みの中で遠くの方から眺めているだけでしたが、今回は聖職者として初めての参加です。
9時30分から始まった聖体礼儀には、ロシア正教会渉外局長のアントニイ府主教がセラフィム新府主教とともに祈祷に立ちました。
コロナ禍前の2019年7月の全国公会以来、4年ぶりに私を含めた全国の聖職者が陪祷する聖体礼儀となり、単におめでたいイベントという意味以上に、「祈りをともに捧げる者」として嬉しく思いました。
日本正教会首座主教の着座式ですから、教会法上の任命権者であるモスクワ総主教を呼ぶのが筋かも知れませんが、実際に総主教の来日を要請するとなると膨大な随行員も来ることになりますし、式典の主役がセラフィム新府主教でなくモスクワ総主教に移ってしまいます。これは2012年の亜使徒聖ニコライ永眠100年祭で、日本正教会は経験済みです。
さらに今の国際情勢では、モスクワ総主教がニコライ堂に来ることはご遠慮願いたいと言わざるを得ません。ましてそのことで、日本正教会が政治的に利用されるようなことは絶対にお断りです。
そのようなことで、セラフィム新府主教の考えとして、着座式にはモスクワ総主教の代理者(その立場の役職者が渉外局長)のみ招請し、その他のロシア正教会の要人は一切招待しないこととなりました。
新府主教は見栄を張らずに現実を直視しており、実に賢明な判断だと思いました。
ちなみにモスクワ総主教をわが国の首相に例えると、渉外局長は外務大臣と内閣官房長官を合わせたような役職ですが、アントニイ府主教はなんと弱冠39歳。わが国のキャリア官僚みたいだな、と変なところで感心しました。
聖体礼儀の中で、小聖入の前にセラフィム座下を全日本の府主教として承認する旨の、キリル総主教の書状がアントニイ府主教によって朗読されました。
さらに、使徒経(新約聖書の使徒書簡)の朗読の前に、新府主教が高座(至聖所中央奥の首座主教しか座れない椅子)に座り、三つ揃えのパナギアを授かるセレモニーが行われました。
ちなみにパナギアとは、主教だけがつける首飾りのことですが、三個セットのものは独立教会や自治教会のトップ、つまり「一国の首座主教」しか身に着けることができません。数が多くて重さが重くなる分、責任も他の主教に比べて格段に重いという、シンボリックな意味づけとなっています。
「着座式だから椅子に座る儀式とかやるのかな」と冗談で周りに言っていたら、本当にあったので驚きました(笑)。
海外の要人は呼ばない代わりに、一般信徒の聖体礼儀への参祷は大歓迎という新府主教の考えもあってか、信徒領聖の時に聖堂内を見渡すと、この何年も見たことがないほどの参祷者で埋め尽くされていました。嬉しいことです。
聖体礼儀の最後に、セラフィム新府主教に府主教職のシンボルである水色のマンティヤ(マント)と白いクローブク(修道帽)がアントニイ府主教から授与されました。ちなみに主教と大主教のコーディネートは紫のマンティヤと黒い修道帽であり、これまでより明るい色遣いにチェンジしたことになります。
セラフィム新府主教は昭和26年、秋田生まれの72歳。若い頃は写真家をされていましたが、36歳で神学校に入られ、ニコライ堂で司祭を勤めて来られました。ちょっと遅咲きの召命という意味では、おこがましいですが私と似た境遇です。
99年のフェオドシイ府主教(当時)の急逝後、仙台の主教として叙聖され、以来東日本主教区を司牧されました。また、ダニイル前府主教の晩年には、「東京の副主教」を兼務して仙台と東京を往復しつつ、ダニイル府主教を補佐してきました。
最大のご苦労は、2011年の東日本大震災での被災とその後の東北の諸教会の復興だったことは言うまでもありません。
そのような苦労人の新府主教は、着座の所信表明の挨拶で「日本正教会は世代交代を迫られている。自分の役割は教会を次の世代に引き渡すための下地作りに徹することにある」と言いました。組織のトップに就くとなると見栄を張って大風呂敷を拡げたり、ファンタジックな美辞麗句を並べる人が多いのに、何と正直で現実的なことをおっしゃるのかと私は感心しました。
図らずも、セラフィム新府主教の事実上の初仕事の一つが、わが福岡の新教会設立の認可と資金の提供だったわけです。次の世代に継承しうる教会を造るという意味では、私は新府主教の理念の近くにいるといえるでしょう。
そのようなわけで、セラフィム府主教を新たなリーダーに戴いて、私も大いに励みに思っています。