全国的に今日から明後日にかけて、記録的な寒波に見舞われるとニュースで報じています。
もともとこの時期、人吉の最低気温は氷点下2℃前後なのですが、そこからさらに5℃くらい下がるとの予報なので、戦々恐々としていました。
そんな中、日曜日に93歳で永眠した人吉教会信徒のソフィヤさん(仮名)の葬儀を執り行うことになりました。
ソフィヤさんは人吉教会のO執事長の義理の叔母にあたる方です。
彼女は相良村内の出身で、村で一番の名士であるO家に嫁いで来られました。十数年前に亡くなられたご主人(現執事長の父の弟)は村でただ一軒の歯科医で、本家が営む病院の隣の自宅で開業していました。
残念ながら二人いた娘さんに先立たれ、ご主人が亡くなった後はO執事長が営む老人ホームで暮らしていました。
私はソフィヤさんには着任直後に一回会っただけでしたが、とても信仰に篤い人でした。今から思うと、娘さんに相次いで先立たれるという悲しみを経て、信仰が心の支えだったのかも知れません。
彼女は最後まで認知症などはなく、つい最近、空き家になっている自宅を自分が入居している老人ホームを運営する社会福祉法人に寄付しました。職員の寮にしてもらうためです。
そして、自分が死んだらその旧宅で通夜を挙げ、人吉ハリストス正教会で埋葬式を執り行ってほしいと言い残して永い眠りに就かれたのです。
そのようなわけで、昨日は彼女の旧宅にご遺体を運び、たくさんのイコンが飾られた部屋で通夜としてのパニヒダを執り行いました。
今日は埋葬式ということで、妻と朝から人吉の聖堂に行き、ご遺体が到着するまで1時間ほどかけて設営をしました。
ソフィヤさんが到着し、葬儀社の方と一緒に飾り付けをレイアウトしました。
参考までに記すと、正教会の聖堂での葬儀では必ず遺体の足を至聖所の方向に向けて安置するのが決まりです。つまり再び起き上がった(=復活)時は至聖所に向かい合うポーズということになります。
これは、神に祈りを献じているのは永遠の生命に生きている故人自身であり、それを司祷者と参列者が囲んで共に祈るという考えに基づくものです。
埋葬式(いわゆる告別式に相当)が始まったのは13時でしたが、午前中に雨から変わった雪はどんどん激しくなり、さらに風も強くなってきました。
人吉教会の敷地の入口は細い坂道になっていて霊柩車は乗り入れられないので、出棺時は棺を抱えたまま公道まで坂道を下りて行きましたが、手がふさがっていて傘は差せませんから、雪が吹き付けて大変でした。
火葬場に着いた時は敷地内に雪が積もっていました。
しかし、ソフィヤさんのご遺志を実現することができて良かったと思いました。
人吉教会所属の信徒でご葬儀をさせていただいたのはこれで4人目ですが、聖堂で執り行ったのはソフィヤさんが初めてです。正教徒としてあるべきスタイルを全うできたという意味でも良かったと思います。
人吉市の火葬場は昭和時代のクラシカルな設備で、お骨になるまで2時間かかります。待合室などもありません。
そのため、棺をいったん炉に入れた後は一時解散となり、2時間後にまた火葬場に戻るのが習わしです。
コロナ禍以前は田舎の習慣として、このような「待ち時間」に酒宴が行われていたようですが、今はそのようなことはできなくなっています。
私は教会に帰って、妻や葬儀社の方たちと後片付けをし、聖堂内をもとの状態に戻しました。
最後に聖堂を戸締りする時にやったのは、敷地内の水道の元栓を閉め、聖堂内の蛇口から残った水を出してしまうことです。
ちょうど2年前、やはり人吉が寒波に見舞われた時に水道が凍結して壊れ、水が噴き出して大変だった記憶があるからです。
自分たちが住んでいる場所ならすぐ気がつきますが、普段人がいない場所でそうなったら水道代がとんでもないことになります。
今週末はもともと、人吉で聖体礼儀を予定しているので、それまで断水。備えあれば憂いなしです。
帰宅後、さらに風と雪がひどくなり、吹雪のようになっています。
高速道路は午前中の時点で福岡県や大分県で全線通行止めになっていましたが、ついに通行止めの名所(?)である八代―えびの間もストップしてしまいました。
今日の葬儀の喪主は故人の首都圏在住のお孫さん(先だった娘さんの遺児)でしたが、人吉からは空港にも新幹線の駅にも高速道路で山を越えなければ行かれないので、しばらく当地に留め置かれてしまうかも知れません。
しかし、たぶん明日の朝は路面が凍ってスケート場のようになってしまうでしょう。人吉には公共の交通機関がほとんどなく、外出にはマイカーが必須ですが、この調子では喪主様だけでなく、わが家もどこにも行かれないことになりそうです。
もちろん今回の寒波は人吉だけでなく、全国共通で及んでいますから、どなた様もどうか今週はご無事でありますようにお祈りします。