先週末は熊本に巡回しました。
熊本ハリストス正教会は約140年の歴史がありますが、いまは所属信徒が3世帯まで減ってしまい、細々とやっています。
大斎の装飾用の黒い布も調達できないので、人吉から持参して祈祷の間だけ祭壇にかけています。
聖体礼儀では他の教会と同様、ウクライナでの戦禍に苦しむ人々の救いと世界平和のために、リティヤという祈祷を献じました。
今回の熊本巡回では土曜日に、どうしても訪れたかった田原坂西南戦争資料館に行きました。
明治10(1877)年2月15日、西郷隆盛を首領に、旧薩摩藩の士族を中心とする反乱軍が挙兵。彼らは熊本鎮台、つまり陸軍の九州本部が置かれた熊本城を攻撃し、2か月にわたる籠城戦となりました。
明治新政府は薩摩軍の鎮圧と熊本城の救援のために大軍を派遣。熊本市の北にある丘陵地帯の田原坂で両軍が激突し、西南戦争最大の激戦地となりました。
戦闘が行われたのは3月4日から20日までの17日間。ちょうど今と同じ時期だったので、今回の巡回時に訪れようと思ったのです。
麓の国道208号線から資料館までの2㎞ほどの道は、実際に戦闘が行われた場所です。細くて曲がりくねった見通しの悪い山道のままで(さすがに舗装はされていますが)、今でもそこかしこに薩摩軍のゲリラが潜んでいそうな雰囲気でした。
ちなみに田原坂での戦闘期間はずっと雨だったそうですが、この日も偶然雨降りで、当時のことが一層偲ばれました。
資料館の脇には、銃撃戦で穴だらけになった当時の土蔵が保存されていて、戦闘の激しさをうかがわせます。
館内には当時の資料や戦況の説明がたくさん展示してあり、地元の人々の出演で撮影した戦闘の再現映像も上映されていて、とても見応えがありました。
田原坂の17日間の戦闘で、政府軍は約2400人が戦死しました。薩摩軍の正確な死者数は不明ですが、ほぼ同数と考えられているそうです。参戦した兵士の2割から3割が死亡したことになります。
機関銃もミサイルもない時代に、小銃と日本刀での戦闘だけでこんなに多くの死者が出たのは稀だと思います。
負傷者も含めれば「無傷で済んだ兵士はほとんどいない」状態だったと想像できます。とても尋常ではありません。
ちなみに、対外戦争である日清戦争での日本軍の戦死者は1000人ほどです。病死者が1万人を超えるという特殊性はありましたが。
西南戦争は開戦から7か月後の9月24日、鹿児島・城山で西郷はじめ薩摩軍が全滅し、終結しました。戦死者の総数は両軍それぞれ約7000人で、合計約14000人です。その意味では、4000人以上の若い命が失われた田原坂は群を抜いています。
資料館のある公園には西南戦争の戦死者慰霊碑があり、両軍の戦死者のほぼ全員の名前が刻まれています。
人吉藩は薩摩藩と結びつきが深かったため、旧人吉藩士も「人吉隊」として多数薩摩軍に加わり、うち20人が戦死しています。
熊本教会で田原坂を見学したことを信徒に話したら、人吉出身の90代の信徒が「私のひいお祖父さんも、あそこで戦死したんですよ」とのこと。戦死者名の碑の写真を見せたら「この人です。間違いない」と言うのです。
他の地域で先祖が戦死したという場合、日中戦争と太平洋戦争以外はせいぜい日露戦争だと思うのですが、南九州では西南戦争のケースも少なくないようです。
さて、この西南戦争は日本史上最後の内戦だったわけですが、これは「不平士族の反乱」という定義づけがされています。
戊辰戦争で薩長に敗れた側の東北の人々が、明治政府に反旗を翻すならまだ分かるのですが、西南戦争やそれに先立つ「佐賀の乱」「萩の乱」はみな、なぜか「勝ち組」であるはずの倒幕勢力側の人々が起こしています。何が不平なのでしょうか。
背景として、明治新政府が出した近代化政策、具体的には「廃藩置県」で藩がなくなったこと、「徴兵制」で武士に替わって平民が軍人となったこと、「廃刀令」で刀の所持が禁じられたこと、「秩禄処分」で家禄の支給がなくなったことがあると説明されています。
しかし、250年も存続した絶対的な権力機構の徳川幕府を倒した人々が、その幕藩体制の制度がなくなったことに不満を抱くというのは何とも矛盾しているように思います。
確かに廃藩置県と秩禄処分で日本中の武士が失業したのは事実です。しかし「勝ち組」諸藩の出身なら上手くやろうと思えばできるはずなのに、数百人かせいぜい数千人で徒党を組んで反乱を起こしても鎮圧されるに決まっています。西南戦争は西郷隆盛というビッグネームが担ぎ出されたことで、数万人規模の旧士族が参加し、大戦争になりましたが、それでも政府を倒すのは到底無理でしょう。
詰まるところこれらの内戦は、武士というアイデンティティが完全に消滅したことで、その絶望感による「群集心理的な集団自殺」だったとしか私には考えられません。
本来なら西郷隆盛ら、維新の指導者は、そういう反社会的な行動を戒め、「不満は分かるが、幕府を倒した俺たちみんなで新時代のために頑張ろうよ」と呼びかけるべき立場だったはずですが、彼ら自身が大久保利通ら、主流派と対立して干されてしまったので「集団自殺」側に回ってしまったのではないでしょうか。
明治維新当時の日本の人口は、現在の約4分の1の3500万人ほどで、その中で士族は平民と比べて一定の知的レベルがあった階級です。その新時代の人材になり得る人々がこのような「集団的狂気」によって、14000人も死んでしまったことは日本の大きな損失だったと考えます。
今日もウクライナだけでなく、世界で戦争は起きているわけですが、戦争への流れは指導者一人が起こせるものではなく、その指導者が人々を集団的狂気に誘導することで起きるものと思います。
せめて自分だけでもそういう誘導に乗せられないよう、いろいろな角度で情報を見るように心がけたいと思っています。