今日は球磨川のほとりで、人吉花火大会が開かれました。
2020年は大水害で中止になり、昨年もコロナで中止になってしまいました。私たち夫婦が人吉に来たのは2019年秋だったので、人吉の花火を見るのは今回初めてです。
川沿いは見物客で混雑しているだろうと思い、少し高台になっている人吉教会の敷地から見物しました。
今日は午後から19時半の花火開始直前まで、断続的に雨が結構降っていたのですが、花火が始まったら止み、花火を堪能することができました。
さて、8月15日になるといつも思い出すのが、前任教会時代、信徒のKさんを廻家祈祷(家庭訪問)で訪ねた時に、私に語ってくれた話です。
Kさんは大正15年、人吉生まれの「特攻隊の生き残り」です。
ちなみにKさんの親戚の多くは人吉に住んでおり、人吉教会の信徒です。そのため、私が人吉に転勤が決まった時、Kさんはとても喜んでくれました。
ちょうどKさんが小学校に入った頃、満州事変が勃発。小学生から中学生にかけて、「正真正銘の軍国少年」(本人談)として育ったKさんの夢は、「軍人、それも戦闘機のパイロットになって活躍すること」でした。
現代の航空自衛隊もそうですが、旧陸海軍でも航空隊、それも戦闘機の操縦士は最も優秀な人でないと配属されません。
そこでK少年は常に勉強もスポーツも一番を目指して頑張りました。それは全て「憧れの戦闘機乗り」になるためです。
昭和16年12月の真珠湾攻撃で、海軍航空隊が挙げた目覚ましい戦果は否応もなく、旧制中学生のK青年の心を掻き立てました。
とりわけ、昭和15年に運用が開始された世界最新鋭の零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦は最高の憧れの対象でした。
そこで、開戦翌年の昭和17年、そのゼロ戦のパイロットになるため、難関を突破して海軍航空予科練習生、いわゆる予科練に入隊しました。
予科練時代の昭和19年に特攻が始まり、予科練の卒業生も神風特別攻撃隊、いわゆるカミカゼ特攻隊で出撃するようになりました。K青年の夢は「特攻隊員として憧れのゼロ戦に乗り、敵艦に突入してお国のために華々しく戦死する」ことに変化しました。
しかし、昭和20年に予科練を卒業したK青年が配属されたのは、特攻隊は特攻隊でも「人間魚雷回天」の部隊でした。予科練での厳しい航空訓練は生かされず、憧れのゼロ戦どころか飛行機にすら乗れなかったのです。
Kさんから聞いて初めて知ったのですが、特攻の出撃は強制ではなく、あくまでも「本人の志願制」です。つまり出撃命令に対して本人が希望しない限り、部隊の側はその隊員を出撃させられない決まりでした。
しかしKさんの証言によれば、実際のところは、上官が隊員を横一列に並ばせて「出撃命令が下った。出撃を希望する者は一歩前に出ろ」と命じるのだそうです。これでは「前に出ない」選択の方が難しいでしょう。
それにも関わらず、Kさんは回天の出撃命令を拒否し続けました。それは死ぬのが嫌だったからではありません。
Kさんは「自分はゼロ戦に乗るために、ただひたすら頑張って来た。自分はカミカゼで死ぬことを強く願っているので、たった一つしかない命を回天で失うわけにはいかない。一刻も早く、神風特攻隊に配置換えしてもらいたい。そうすれば喜んで出撃する」と上官に要求し続けたのです。
Kさん自身は語りませんでしたが、特攻隊に配属されながら出撃を拒否し続けるような隊員が、どれだけ「卑怯者」と罵られ、酷いイジメを受けたか想像に難くありません。
しかし、Kさんはカミカゼでの戦死という「夢の実現」のために主張を曲げることはなく、ついに終戦を迎えました。
もちろん、部隊の戦友の多くは回天で出撃し、戦死しました。
戦争が終わり、Kさんは子ども時代から当たり前のように思っていて、青春を貫き通した憧れ、つまり「軍人になってお国のために華々しく戦死すること」自体が、社会による洗脳以外の何ものでもなかったと初めて気づきました。そして「自分はずっと騙され続けていたのか。沢山の仲間はそれで死ぬ羽目になり、自分も死ぬところだった。絶対に許せない」という激しい怒りと悔しさに満ち溢れたそうです。
戦後、終戦記念日が近づくと、いつもかつての戦友たちから「靖国神社参拝」の誘いが来たそうですが、Kさんは「靖国神社には一歩も足を踏み入れたくない」といって断り続けたそうです。その理由をKさんは語りました。
「自分がキリスト教徒だからではない。もちろん、戦死した仲間たちのために祈る気持ちはある。しかし、その場所は靖国神社ではない。なぜなら靖国神社には戦友だけでなく、戦争を起こして自分たちを洗脳し、死なせようとした連中も一緒に祀られているからだ。何で東条英機なんかが祀られている神社で頭を下げなくてはならないのか。そんなことは死んだ仲間と自分自身への最大の侮辱だ」
「お国のために戦って死んだ英霊たちのおかげで今の日本がある」というのは、よく聞かれる言葉です。その言葉自体は必ずしも間違ってはいないと私も思います。またその「お国のために戦って死ぬ」ことが、戦死者本人の大多数の意思だったことも、Kさんの証言によれば疑う余地もありません。
しかし、肝心の本人の意思が、教育やマスコミを介した「社会の刷り込み」によって意図的に形成されたものだったとしたら、どうでしょうか。「特攻は国を愛する本人の尊い自発的な意思」というのは、確かに制度としてはそうだったかも知れませんが、実際は周りからそのように仕組まれていたのだとしたら、話は違ってきます。
もしKさんが他の戦友と同様、回天での出撃命令に素直に応じていたら、あるいは要求通りに神風特攻隊に配置換えになっていたら、私はKさんと出会っていないし、彼の経験談を聞き、このように感じることもありませんでした。
ロシアのウクライナ侵攻から5か月が過ぎましたが、侵攻を正当化するためのロシア側のフェイクニュースの実態が続々と明らかになっています。意図的な「社会の刷り込み」は80年前の日本だけでなく、今の世界でも変わらないということです。
せめて自分は感情論ではなく、いろいろな情報、いろいろな意見を客観的に見るようにして、「愛」とか「平和」とか「希望」といった普遍的な価値観だけを追求できるようにしたいと、この終戦記念日に改めて思います。
ちなみにKさんは戦後、旧農林省の技術官僚となり、害虫対策の分野で活躍されました。老後は90代になっても、昆虫採集、社交ダンス、俳句作りなど多彩な趣味を楽しんでいます。戦争から生かされた命を最大限充実させようとしているのでしょう。
人吉に転勤になってからKさんとは3年近く会っていませんが、96歳の今も元気だと人吉教会の信徒から聞きました。神がKさんをいつまでも守り給うことを祈っています。