九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

主の顕栄祭 収穫への感謝とキリスト教の伝統

今日は人吉ハリストス正教会で、主の顕栄祭を執り行いました。

主の顕栄祭とは、キリストの変容(マタイ17章)を記念する祭で、本来の祭日は8月19日(ユリウス暦の8月6日)です。

祭の位置づけとしては、復活祭に次いで重要な12の祭「十二大祭」の一つ。つまり降誕祭(いわゆるクリスマス)などと同格です。

 

正教会の伝統ではこの顕栄祭の時、新たに収穫された農作物を神に感謝して成聖(祝福)する習慣があります。これを「新果新蔬成聖」といいます。

キリスト教の発祥の地である東地中海地域では、8月に収穫される作物はブドウなので、祈祷文も「葡萄に降福する祝文」となっています。

しかし、キリスト教がより北方のブドウを産しない地域にも伝播された結果、ブドウ以外の農産物も成聖の対象となりました。実際、ロシアやウクライナではブドウではなくリンゴが新果新蔬成聖の主な対象です。よって、その場合に用いるための別の祈祷文「新果新疏を献ぐる者の為の祝文」も作られています。

つまり、成聖するのはブドウなのか、それ以外の作物なのかによって祈祷文も使い分けるということです。

 

大変興味深いのは、「収穫を神に感謝する」ことと「キリストの変容」とは、神学的には直接の関係はないということです。一応、私も信徒への説教の中では「作物が種や苗から『変容』し、私たちに実りとして与えられるのも神の恵みですから、感謝して頂きましょう」などと言うようにしていますが、「こじつけだ」と言われはしまいかヒヤヒヤしています(笑)。

要するに、「大地の恵み、新たな収穫を感謝して祝う」という発想自体がキリスト教以前の異教時代から、さらには日本のようにキリスト教自体が伝わって来なかった地域においても、普遍的に存在する「人類共通の当たり前な感情」であって、それがキリスト教における「夏祭り」の顕栄祭と融合している、というのが「新果新蔬成聖」の正しい説明です。

つまり、正教会のような伝統的なキリスト教思想においては、そういった「古くからの伝統文化」を非聖書的だと切り捨ててしまうのではなく、むしろ教会の文化として取り入れてきたということなのです。その意味では、「クリスマスツリー」なども同じです。

よく「キリスト教イスラム教のような一神教は思想が偏っていて戦争ばかりしているが、八百万の神を信じている日本人は寛容で平和的だ」などという人が少なくないのですが、そのように宗教の違いで人間に優劣をつけたり、挙句の果てに「だから日本人はスゴイ」と強弁する方が偏狭なのであって、寛容というなら多様な文化を受け入れて伝統を築いてきたキリスト教も同じでしょう。

 

人吉は農村地域ですが、教会の信徒に農家はいませんので、今日は妻がスーパーで買ったブドウを成聖し、プレゼントとして参祷者に配りました。

私も妻も生産者ではないですが、顕栄祭にあたって大地の恵みの「お裾分け」ができた一日でした。

ブドウの成聖