新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
今朝は妻と球磨川べりに初日の出を見に行きました。
明日は日曜日で祈祷がありますから、どこか遠くに出かけるつもりはなく、またこちらで初日の出を見たことがなかったので、昨夜急に思い立ちました。
九州の日の出の時刻は遅いので(今日の日の出は7時18分)、関東にいた頃ほど早起きしなくて済むからいいかも、という読み(?)もありました。
問題はどこで日の出を見るかです。小高くなっている場所は木々が茂っていて、太陽が上まで昇って来ないと見えません。
そこで気がついたのは、東西方向に流れている球磨川に行って川上の方向を見れば、障害物もなくて初日の出が拝めるではないか、ということでした。
7時過ぎに球磨川べりにある人吉城址に駐車し、日の出が見えるスポットを探して川沿いに歩きました。今朝の気温は氷点下4℃。川面から霧が湯気のように立ち昇っていました。
結局、日の出が見えるのは人吉教会のすぐ近くの、肥薩線の鉄橋越しの方向だと分かりました。こういうことなら初めから教会に車を停めれば良かったのですが…
7時40分頃、太陽が姿を見せました!
この球磨川の穏やかな流れを見ていると、同じ川がつい1年半前、人吉に悲劇的な災いをもたらしたとは到底思えません。しかし、肥薩線が無期限休業となって、列車が通ることがなくなったまま空しく立っている鉄橋は、あの日のことを覚えているでしょう。
太陽が球磨川の向こうから昇り、人吉の街を照らし始めたのを見ていると、この2022年が人吉の復興の大きな前進の年だという、希望のメッセージを伝えているような気がしてきました。
教会は古来、人類の救いのためにこの世に来られた神・キリストを、暗闇を打ち破って東の空から昇る朝日に例えてきました。
ちょうど今は降誕祭の時期ですが、正教会の降誕祭のトロパリ(聖歌)の歌詞には「なんじ義の日を拝み、なんじ上よりの東を悟れり。主や、光栄はなんじに帰す」とあります。
キリストの降誕とは、罪が支配するこの世の暗黒状態を破って「上よりの東」、つまり神が示した方角から救いという光を伴って、日の出のように救世主が姿を現したことだ、という意味です。ちなみに「義の日」とは旧約聖書のマラキ書の聖句「わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る」(マラキ3:20)に基づくもので、キリストの降誕は偶然の出来事ではなく、旧約聖書の預言の成就であることを示しています。
そして、この「キリストの到来と、それによって示された救い」を信じることが何に繋がるかというと、生きる上での「希望」であると、教会は考えます。
新約聖書の「ヘブライ人への手紙」で、使徒パウロは「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11:1)と書いています。聖書の日本語訳では意味が分かりにくいのですが、ギリシャ語の原文に基づいて意訳すると「見えないこと(神の救い)を確信するという信仰は、希望の下支え(ヒポスタシス)である」という意味になります。
そのようなわけで、私は初日の出に「神は苦難にある者を顧み、必ず救ってくれる」という希望の光を感じた次第です。
帰宅して、妻の手作りのお節料理と雑煮で新年を祝いました。
お屠蘇は熊本の習慣に従い、伝統的な熊本特産の酒「赤酒」で作りました。ただし、正月用の雅な酒器は持っていないので、薩摩焼酎用の酒器「黒じょか」に入れました。
熊本藩と薩摩藩の伝統のジョイント(?)ですが、これでさらに自分が「九州人」に近づけたような気がします。
九州に来て、これで三回目の元日です。九州の皆さんとともに、希望をもって前進する一年にしていきたいと決意を固めています。