昨日は熊本ハリストス正教会で聖体礼儀を行いました。
教会暦は復活祭(今年は4月24日)の前の約7週間を、節制によって復活祭を迎える準備をする期間「大斎」(おおものいみ)とし、さらに大斎に入る前の3週間を大斎準備週間としています。
昨日はその大斎準備週間の最初の日曜日である「税吏とファリセイの主日」でした。この名称は、聖体礼儀の中で朗読される福音書の箇所「徴税人とファリサイ人のたとえ」(ルカ18:10-14)に由来するものです。
このたとえ話はファリサイ人、つまり律法を字句通りきっちり順守することに価値観を置いている人物と、徴税人、つまりローマ帝国が植民地の住民から人頭税を取り立てるために雇われたヤクザ者とが、神殿で神に祈っているというシチュエーションです。
ちなみに、当時のユダヤ人社会では当然ながら、ファリサイ人は立派な人として尊敬され、徴税人は軽蔑されていました。
ファリサイ人は神に向かって自分がいかに模範的な行いをしているかを誇らしげに述べ、一方、自分の罪深さを自覚していた徴税人は顔を上げることもできず、ただ「神様、罪人の私を憐れんでください」(ルカ18:13)と言うばかりでした。
そしてイエスはユダヤ人社会の一般常識に反して、義とされた、つまり神に認められた者は徴税人の方であってファリサイ人の方ではないと、この話を結論づけました。
このたとえ話は、外面的な行いよりも内面の謙遜の方が大切であることを説いたものですが、そんなことは宗教とは関係なしに、一般的な道徳論でも分かることです。とりわけ、日本は集団の和と序列を重んじる社会であり、謙虚さを美徳と考える傾向にあるので、謙遜のすすめなど「何を今さら」と思われてしまうかもしれません。
話の要点は、そのような社会生活上の一般論ではなく、「神という絶対者と比較したら、ただの人間に過ぎない自分はどうなのか」ということです。そもそも、日本社会でいう謙遜とは、集団の中での自分の立ち位置や人間関係を前提としている、言い換えれば集団内での自分と他人との比較によって初めて成り立つものであって、キリスト教が考える謙遜とは意味合いが違っています。
たとえ話の中で、ファリサイ人は「神様、私は他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」(ルカ18:11)と言っています。ここがアウトなのです。
つまり、人間は誰でも、絶対者である神と比べたら全くちっぽけな存在でしかないのであり、よって同じ人間である自分と他人を比較して、優越感にひたって満足することなどナンセンスの極みとしか言いようがないのです。このファリサイ人はそのことが分かっていない人の実例です。
これと逆パターンで、自分と他人を比較して劣等感で落ち込む人もいますが、実はそれもファリサイ人と同じ心理です。つまり、自分は他人と比べて劣っていると思うことで、「できない」というか「やらない」自分を正当化し、安心しているのです。ファリサイ人を傲慢というなら、こちらは謙虚ではなく卑屈というべきですが、どちらも自分の価値観で、他人と自分を比較することによって自分のポジションを見出そうとしている、という意味では一緒です。
つまり、どちらに転んでも、他人と自分を比べることで人生観が不健全になるという不幸に陥っているのです。
どんなに頑張っても自分は神になれないし、神と比較したらどんな人間も五十歩百歩、「他人は他人、自分は自分」と思えば、他人と自分を比較することで生じる不幸から自分を解き放つことができます。自分ができることしか自分にはできないのですから、他人をどうこう言う前に自分ができることを頑張って、できないことは神にお任せすれば良いのです。
それを自覚することが、キリスト教的な「謙遜」というわけです。
もっとも、これは「言うは易く、行うは難し」なので、私自身も他人を気にせずに、自分の務めを果たすよう心がけていきたいと思っています。