九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

正教会では「食」も信仰生活の一環

昨日は4月にご葬儀を行った方の40日祭パニヒダ(故人の永眠後40日目を記憶する祈り)を執り行うため、福岡に出張していました。

5月2日に福岡で復活祭を執り行い、現地に泊まって翌日にパニヒダを献じる予定でしたが、福岡県の外出自粛要請を受けて、公開の教会行事である復活祭を延期し、パニヒダを行うためだけに日帰り出張したということです。

 

祈祷後に後片付けをして、福岡伝道所を出た時は14時近くなっていました。伝道所の近くに老舗の美味しいイタリア料理店があるので、昼の営業時間が終わる前に駆け込みました。

自家製麺のパスタがいろいろあるのですが、昨日は迷わず卵とチーズと自家製ベーコンを沢山使った特製カルボナーラを注文しました。それらの食材は大斎の間、1か月半以上口にしていませんでしたので、もともと美味しい料理がさらに美味しく感じられました。

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特製カルボナーラ

 

ちなみに前日の復活祭の夜は、近所で月に二回ほど店を出す屋台の焼き鳥屋で、各種の焼き鳥をごっそり購入しました。写真は私が食べた分です。

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復活祭の夕食は焼き鳥

この屋台の焼き鳥はとても美味しいので人気があり、買うのに予約が必要なほどです。我が家もいつも買っていたのですが、妻は店主に顔を覚えられてしまったようで、予約しに行ったら「しばらく買いに来なかったけど、どうしたの」と言われてしまったそうです(笑)。確かに断肉の主日の前日、3月6日の土曜日に「肉を食べ尽くす」 ために買ったのが最後でしたから、常連だったのが約2か月も来ないので不思議に思われたのも無理ないなと思いました。

二か月ぶりに口にした焼き鳥は、一本が100円ほどの安い食べ物ですが、復活祭を迎えて斎から解放された私には、どんな高級料理にも勝るとも劣らない美味しさを感じました。決して大げさではなく、「自分が生かされている喜び」を実感しました。

 

正教会には、このように特定の期間や曜日に動物性の食品を断つ「斎」(ものいみ)という信仰上の習慣があります。正教会という「一部の宗派の風変わりな習慣」と思われている節があるのですが、実際はそうではなく、少なくとも宗教改革以前まではキリスト教共通の伝統的な信仰生活として守られていたものです。しかし、社会の近代化と教会の世俗化に伴って、カトリックでもプロテスタントでも、つまり「西欧のキリスト教」において、この伝統が失われてしまったのです。

 

斎は英語でfastingですが、そのせいか「断食」と訳されることが多いようです。その結果、イスラム教のラマダンのように何も食べない意味に誤解されがちですが、実際は動物や鳥、魚の肉やその生産物(卵や乳など)、つまり「特定の動物性食材を断つ」ことです。

これが行われるのは復活祭前の約7週間や降誕祭前の40日間など、重要な祭を迎えるための準備期間の位置づけとしてです。また曜日なら、ユダが銀30枚でイエスを売った曜日の水曜日と、イエスが十字架につけられた曜日の金曜日が斎日です。つまり、期間であれ曜日であれ、信仰の上で重要なことを記憶すべき時に付随して行われるのであって、機械的にやっているのではありません。もちろん、意味が分からずに機械的に「斎はルールだ」と思っている信者は少なくないのですが…

 

では何のために斎、特に一番期間が長い大斎(Great Lent)があるのでしょうか。斎の意味づけはいろいろあるのですが、究極的には現代の正教会を代表する英国の神学者カリストス・ウェア府主教が「The Meaning of the Grear Fast」という文章の中で述べた「斎の第一の目的は我々に神への依存を自覚させることである」という言葉に尽きます。 

人間は何も食べなければ生きることができません。かと言って、生活の中でいつも好きなものを好きな時に好きなだけ食べ続けていたら、食べることも生きていることも自分にとって「当たり前」になってしまい、それを与えてくださっているはずの神の存在を忘れさせてしまいます。神の存在を忘れて自分の力で生きているように錯覚する、これがキリスト教で定義するところの「罪」です。

そこで、一人ひとりが神から授かった「自分の意思」で、食事の内容に一定の制限を加えることにより、自然の恵みである食べ物も自分自身の命も、全て神が与えてくれていることを自覚し、降誕、受難、復活といった大きな主の御業を記憶しましょう、というのが斎の趣旨なのです。

 

それでは次に、なぜ動物性食品に断食を限定するのでしょうか。信者の中にも、「生き物の殺生の罪を禁じるために、動物性食品を断つ」と思っている人が少なくありません。しかし、それなら肉や卵を特定の期間だけでなく、365日食べてはならないはずですし、また牛を殺していないのに牛乳を摂っては駄目だというのは理屈が通りません。そもそも旧約聖書を読むと、神自身が牛や羊を殺して生贄に捧げろと要求しているではありませんか!

つまり、人間と他の生物をいっしょくたにして殺生を禁じるという発想自体が、キリスト教的でない「異教思想」です。(動物愛護を否定するものではありません。生き物を慈しむことと、食用動物を食べることは別次元です)

答えはいくつかあるのですが、「人間が創造された時の食生活に近づくことで、罪に陥る以前の人間のあるべき姿を思い出す」という答えが最も説得力があると考えます。

神は人間を創造して「全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、全てあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」(創世記1:29)、「園の全ての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2:16-17)と言ったと聖書にあります。つまりエデンの園では、最初の人間アダムとエヴァに与えられた食べ物は植物であって、他の生物は共生する存在だったのです。

アダムとエヴァは神の命令を自らの意思で破り、「善悪の知識の木」の実を食べてしまいました。つまり、彼らは上記の「神の存在を忘れて自分の力で生きているように錯覚」をしたのであり、この人類初の「罪」によって人間は誰でも死ぬようになった、と私たちは考えます。

キリストの復活を信じることで、私たちもいつか死から復活し、アダムが罪に陥る以前の神と共に永遠に生きる存在に戻ろう…これがキリスト教信仰の目的です。その意味で「自らの意思で」植物性の食事を選択し、人類が創られた時の状態を思い出そうというのが、斎の主たる意味だと言えます。そして、復活祭や降誕祭といった「目的地」に到達し、斎期が解けた時は肉や卵もまた、神から与えられたありがたい糧の一つだと気づくこともできるのです。

 

このように正教会において信仰とは、ただ聖書を読んで頭の中だけでイメージを膨らませるものではなく、神から与えられた命に生きる日々の生活において証していくものであって、「食」もまたその一つなのです。