九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

ペットとの別れをどう考える? 

昨年10月、15年以上飼っていた愛犬のほたるが死にました。

人吉で共に過ごした最後の1年は認知症が進み、介護が大変でしたが、安らかに天寿を全うさせてやることができたと思います。

 

frgregory.hatenablog.com

 

ほたるが死んでちょうど1年となる先月、火葬の時にお世話になったペット葬祭業者から合同慰霊祭の案内が来ました。

仏教なら一周忌ですが、キリスト教には動物の慰霊とか供養という概念がありません。

しかし、せっかく業者の方でやってくださるのだし、ペットの法要なんて初めての経験ですので、出席することにしました。

 

法要は昨日、錦町の新宮寺で行われました。この寺は黄檗宗名刹で、人吉藩家老の新宮氏の菩提寺です。境内の小高い場所にある観音堂には、戦国時代から江戸時代初期(16世紀後半から17世紀初め)にかけて作られた6体の観音像があります。

また新宮寺は人吉の紅葉の名所でもあり、人吉に来た一昨年の秋、ここに紅葉を見に来ています。

 

frgregory.hatenablog.com

 

 

今年も紅葉が楽しめると思って寺に着きましたが、今年は10月半ばまで真夏日が続く異常気象だったのに、なぜか紅葉が散るのは早く、残念ながらほとんど終わっていました。

f:id:frgregory:20211124190912j:plain

f:id:frgregory:20211124190927j:plain

f:id:frgregory:20211124190940j:plain

新宮寺の紅葉

本堂でほたるの写真を提出。読経が始まるのを待ちました。

f:id:frgregory:20211124191425j:plain

新宮寺の本堂。

法事が始まる頃には出席者が続々と集まって来て、30枚ほどの犬猫の遺影が正面の台にずらりと並べられました。

 

さて、黄檗宗のお寺の法事に出るのは初めてだったのですが(私の生家は日蓮宗、母の実家は真言宗)、この黄檗宗とは江戸時代に明から伝わった比較的新しい禅宗です。

読経は木魚の他、鐘や太鼓を祭囃子のように威勢よくリズミカルに打ち鳴らし、経文の読み方も他宗派と異なる近世中国語に近い発音で、さらに私たちの正教会の聖歌のように節をつけていました。外国のお寺に来たようです(実際に行ったことはありませんが)。

さすがに法事のライブ録音はできなかったので、京都にある黄檗宗の総本山・萬福寺の読経の動画を参考までに載せておきます。


www.youtube.com

 

法事の冒頭、住職が太鼓をドーンと盛大に打ち鳴らすと、ずらっと並んでいた犬猫の遺影のうち、一番真ん中にあったほたるの写真だけがパタンと前に倒れてしまいました。結局、読経が終わるまで写真は台の上に伏せたままの状態でした。

妻は「ほたるは教会で暮らしたから、お坊さんのお経が合わなかったのかもしれない」と言っていました。しかし、そもそもキリスト教に動物の供養はないのだから、お経が合うも合わないも関係ないのでは、と私は思いましたが…

 

さて、キリスト教に動物の供養はないと書きましたが、それは動物を粗末に扱っているという意味ではありません。

神から「たましい」を授かって生きている人間の命と、他の動物の命とを一緒にできないということです。

さらに言うなら、人間には神から授かった「自由な意思」でもって神を信じる・信じないという選択肢があるのであり、それで信仰で救われる・救われないという違いが生じるものと考えています。しかし動物は神が造ったこの世で、人間と共に生きている「被造物」としては同じかも知れませんが、自由な意思に基づく神への信仰は持っていません。よって信仰による霊的な救いは動物には関係ない話なので、動物の慰霊の祈りという発想もないのです。

 

しかし、飼い主だった人間の側としては、信じている宗教が何だろうと、死んだペットはかけがえのない家族の一員だったはずです。

一緒にどこかへ出かけて遊んだり、辛い時の心の慰めになったり、そのペットとの間には喜びも悲しみも含めてたくさんの思い出があるでしょう。ほたるもそうです。

ペットがそういった精神的な財産を与えてくれたことに自分自身が感謝の気持ちをもって、神が造った生きとし生けるものを今後も大切にしていく…キリスト教徒としては、それが一番大事なことだと考えます。

去年のほたるとの別れがあまりにも悲しかったので、妻も私ももう生涯動物は飼わないと言っているのですが、生き物を慈しむことは忘れないようにしようと心掛けています。