九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

携香女の主日 神に仕えるのに男性も女性もない

今日は人吉ハリストス正教会で復活祭期第三主日の聖体礼儀。

この日は「携香女の主日」(Sunday of the Myrrhbearing Women)と呼ばれます。この携香女とは、無残に処刑されて葬られたイエスの遺体を清めるため、没薬(遺体に塗る香料)を携えて墓に行き、イエスが既に復活していたことを発見した女性たちのことです。

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イコン「携香女」

本日読まれるマルコによる福音書には、「マグダラのマリヤ、ヤコフの母マリヤ、サロメ」(マルコ16:1)とあるので、上のイコンに描かれた女性は三人ですが、ルカによる福音書には「マグダラのマリヤ、ヨハナ、ヤコフの母マリヤ、そして一緒にいた他の婦人たち」(ルカ24:10)とあるので、実際の携香女はもっと人数がいたことが分かります。

 

ではこの携香女たちは、そもそも何者でしょうか。

ルカ伝には「(イエスに)悪霊を追い出して病気を癒していただいた何人かの婦人たち、すなわち七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも(イエス十二使徒と)一緒だった。彼女たちは自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(ルカ8:2-3)と書いてあります。

つまり、男性だけでなく女性である彼女らも「イエスの弟子」であり、同じ宣教の働き手だったのです。ここが重要な点です。

 

ではイエスの受難の時、裏切ったイスカリオテのユダは論外として、他の男性の弟子たちはどうしたのでしょうか。

エスが逮捕される時、ペトロが剣を抜いて抵抗を試みましたが、結局「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14:50)のです。

しかも、そのペトロもイエスの仲間だと言われて、三度も「そんな人は知らない」(マタイ26:74)と否定しました。

男性の弟子の中で唯一まともだったのはヨハネだけです。彼はイエスの母マリヤと共に、十字架につけられたイエスのそばに立っていました。それでイエスヨハネに、マリヤを母親として扶養するよう託しています。(ヨハネ19:25-27)

 

この情けない男性たちに対して、女性の弟子たちは番兵が厳重に警戒しているイエスの墓に、危険を顧みず向かいました。それは自分のこと以上に、イエスのためを思ったからに他なりません。その結果、彼女たちがイエスの復活の第一発見者となったのです。

ちなみに携香女たちの中で実際に復活したイエスに会ったのは、ヨハネによる福音書によればマグダラのマリヤであり、彼女を通して主の復活が使徒たちに告げ知らされました。このことから正教会ではマグダラのマリヤを「使徒使徒」「亜使徒使徒ではないが使徒と同じ役割を果たした人物)」と呼びます。

もっともルカ伝によれば、せっかく携香女から主の復活の知らせを受けたのに「使徒たちはこの話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)のですが…

ちなみに男性使徒たちに復活したイエスが現れたのはこの日の夕刻であり、「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せばその罪は赦される」(ヨハネ20:22-23)と言いました。つまりこの福音書の記述から、イエス聖霊を通してご自身の地上における権能、より具体的には機密(Sacrament)を行う資格を「男性の使徒」に引き継いだ、と正教会では(カトリック教会も)理解しています。

 

このエピソードから言えるのは、神に仕えるのに男性も女性もないということです。

よく、「プロテスタントの牧師は女性でもなれるのに、カトリック正教会も)の司祭は男性しかなれないので女性差別だ」と言う人が少なくありません。

これはプロテスタント教会の牧師職と使徒継承教会の司祭職の神学上の違いを分かっていなくて、牧師も司祭も「教会を運営し、礼拝をする人」、もっとはっきり言うと「キリスト教を職業にしている人」という意味で一緒くたにしている証拠です。

司祭職とは、上記の「機密を行う資格」を使徒たちからさらに受け継いだ者という立場です。もっと具体的に言うと「パンとワインをキリストの体と血に変えられる有資格者」です。そして、キリストがその資格を「男性の使徒」に与えたのだから「資格要件は男性」だと理解しています。

プロテスタントの神学においては、聖餐式のパンとワインは最後の晩餐の象りであって、カトリックが(正教会も)いうキリストの体とは考えません。つまり、「パンとワインをキリストの体と血に変えられる有資格者」という概念自体が存在しません。だからプロテスタント教会には礼拝を行ったり説教したりする牧師はいても、司祭は存在しないのです。しかし、教会の働き手に男も女もないのですから、男性も女性も牧師になれるのはむしろ当たり前です。

要するに牧師と司祭は神学上の位置づけが全く異なる役割であり、性差別云々は筋違いもいいところなのです。

 

分かりやすい例としては「病院」が挙げられます。

病院にはいろいろな職種のスタッフが働いています。しかし、「医師」としての医療行為は、医師の資格を持った人しかできません。

仮に医学部を出ていないのに、どんな医師より医学の知識に優れ、手先も器用で難しい手術ができそうなスタッフがいたとしても、その人が「医師の資格要件」を満たしていない以上、医師としては働けません。「そんな優秀な人に医師を名乗らせないなんて差別だ」なんて馬鹿なことを言う人がいるでしょうか?

つまり、司祭とは「宗教的な職業」ではなく、「宗教的な資格」だと言えます。

 

そのようなわけで、正教会においても女性は差別どころか、むしろ働き手として活躍しています。(修道女は本来、職業として教会で働くためになるのではないから、ちょっと違います)

これは婦人会や聖歌隊のような、信者の奉仕会のレベルにとどまらず、伝教者(Catechist)のように、説教や伝道を担う教会のスタッフとして奉職している人もいます。つまり神に仕えるのは男性の司祭だけでなく、男女問わずいろいろな働き手がいて、それで教会は成り立っているのです。「あなた方(教会)はキリストの体であり、また一人ひとりはその部分です」(コリント前12:27)とパウロが言っている通りです。

 

わが管区も人数が少ないのですが、いや、だからこそ、男性も女性も、神父も信徒も皆一丸となって牧会に歩んでいきたいと思っています。