一昨日、熊本巡回で泊まったホテルの近くに、小泉八雲(当時はラフカディオ・ハーン)が住んでいた家があります。
彼は旧制五高の英語教師として1891年から94年までの三年間、熊本で暮らしていました。ちなみに彼の後任は夏目漱石です。
家は「小泉八雲熊本旧居」として、熊本市の文化財に指定されていますが、何と無料で公開されていますので見学してみました。
小泉八雲の『怪談』に書かれた「耳なし芳一」や「雪女」は子どもの頃から読んで知っていましたが、八雲はもともとラフカディオ・ハーンというギリシャ生まれの英国人で、『怪談』も英語の書物だったとは、恥ずかしながら中学に入るまで知りませんでした。
19世紀日本の、それもスピリチュアルな世界に魅せられて、最後は日本の土になった英国人…私にはそれがとても興味深く、高校在学中に『怪談』をはじめ、彼の作品のほぼ全てをペーパーバックの原書で読みました。
難しい単語はあまり使われていないので、高校生の学力でも理解するには問題ありませんでしたが、一つの文章が長く、癖のある読みにくい文体という印象でした。
一冊読み終えると、英文タイプライター(!)の練習のために、本の文章をタイプで転記することもしました。
そんなことで、高校時代の私のマイブームの一つが「小泉八雲作品」だったのですが、それがきっかけになって、大学時代は全国の歴史的な寺社などを実際に訪ねる旅が趣味になりました。もちろん松江にも行き、八雲の作品に出てくる場所を見て回りました。
八雲の家は重厚な古民家です。
八雲は明治37(1904)年春に東京帝国大学を辞め、早稲田大学英文科に転職しました。そしてその年の9月26日に54歳で急死しました。つまり、たった半年とはいえ、彼の最後の肩書は我が母校・早稲田大学の講師だったのです。これもご縁ですね。
彼が死んだ日の午後に書いた手紙の写真(原本は焼失。原本を撮影したものを作家の木下順二氏が所蔵)が、絶筆として展示されていました。貴重です。
邸内には八雲が毎朝、妻のセツと一緒に「日本の習慣に従って」拝んでいた神棚がありました。
西洋人の彼が神棚を拝むとは、どういう心境なのかと思ったら、彼はキリスト教が大嫌いだったと書いてありました。
八雲は当時英国領だったギリシャ・レフカダ島で、アイルランド人の軍医の父とギリシャ人の母との間に生まれました。生後すぐに父が西インド諸島に単身赴任したため、アイルランドのハーン家に母子で移りました。しかし、母は異国での慣れない生活で発狂しギリシャに帰国。父は任地で愛人と再婚しました。両親を失った八雲は大叔母に引き取られ、厳格なカトリック文化の教育を受けた結果、キリスト教そのものが嫌いになってしまったそうです。
厳格なカトリック教育とはどういうものか、およその想像はつきますが、両親の愛を知らない不幸な生い立ちの彼に、キリスト教(正確には19世紀のカトリック教会が示したキリスト教)は何の救いにもならなかったことは考えさせられます。
展示品には、出生直後の八雲が洗礼を受けたレフカダ島の教会の写真もありました。彼は正教徒だったのです!知りませんでした。
彼がアイルランドに行かず、母親とエーゲ海を見ながら正教徒のギリシャ人として成長していたら、平和な生涯を送っていたかも知れません。しかし西洋に日本を紹介し、自らも帰化して日本人となった偉大な文学者・小泉八雲も誕生しなかったことになります。
人生とは何なのか。さらにまた考えさせられました。
高校時代に出会った小泉八雲と、「早稲田大学」「正教会」さらに「熊本」という接点ができて再会。充実した気分です。
またこの家を再訪したくなりました。