九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

十字架を讃美するとはどういう意味か

一昨日は福岡伝道所に巡回し、十字架挙栄祭の聖体礼儀を執り行いました。


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十字架挙栄祭では聖堂の中央に花で飾り付けた十字架を安置し、参祷者はそれに伏拝(ひれ伏すこと)して讃美することが正教会の伝統です。

聖体礼儀では祈祷の終了時に十字架への伏拝を行います。

安置された十字架

十字架への伏拝

今回は十字架への伏拝の後、昨年10月2日に永眠したイリヤ兄のパニヒダを行いました。横浜のウクライナ人信徒で、イリヤ兄のお母様のクセニヤさんに依頼されたものです。

イリヤ兄を記憶した聖パン

 

さて十字架挙栄祭とは、キリスト教を初めて公認したローマ皇帝コンスタンティヌスの母・エレナ皇太后が4世紀に、キリストがかけられた十字架を発掘したことを記念する祭です。

後にその十字架はペルシャに略奪されましたが、7世紀にヘラクリウス帝が奪還し、エルサレムで高く掲げられました。「十字架挙栄」(Elevation of the Cross)という名称は、これに由来します。

 

またそもそも、コンスタンティヌス帝がキリスト教の公認に至った動機も極めて「軍事的」です。

聖人伝には312年、政敵マクセンティウスとの決戦「ミルヴィウス橋の戦い」の前夜、空に十字架の印と「これによって勝て」という文言が現れたので、コンスタンティヌス軍が十字架の旗印を作って戦に臨んだところ、勝利を収めたと書かれています。

この勝利でローマを陥落させたコンスタンティヌスは翌313年、キリスト教公認の宣言「ミラノ勅令」を発布。さらに帝国全土を征服して330年に首都をコンスタンチノープルに移転し、キリスト教を国是とする新しいローマ帝国を築きました。

 

このような背景もあって歴史上、キリスト教社会において十字架は戦争、とりわけ異教徒征服の勝利のシンボルとして長く位置づけられてきたのは、紛れもない事実だったと言わざるを得ません。

戦争を企てる者にとっても、それが神の意志に基づく聖戦であり、敵(である国家や民族)を征服することは正義だと主張するために、十字架は実に都合の良いシンボルマークだったでしょう。

 

しかし昔ならいざ知らず、二回の世界大戦を経た現代社会では、戦争は全くの愚行だということが広く認識されているはずです。よって聖書に記されたキリスト教の本来の教義、とりわけ十字架の意味が下記のように正しく理解されて然るべきものと考えます。

 

つまり人間は本来、神と共に楽園で永遠に生きる存在として創られたはずなのに、最初の人・アダムとエヴァの罪のために、人類は楽園を追放されて「この世」で生き、いつか死ぬものとなった。

その状態を解消(これを「救い」という)するために、神の子が私たちと同じ人間の肉体をとって来られた。これが救世主イエスイエス・キリスト)である。

エスは天の父に人類の罪の赦しを願うための「贖罪のいけにえ」として、つまり文字通りの「自己犠牲」として十字架上の死(受難)を受け入れた。

しかし、復活した姿を弟子たちに示したことで、復活は事実であり、それを認めて受け入れることで自分もまた復活し、人が創造された時と同じ状態、すなわち永遠の生命を獲得できることが示された。

よってイエスがつけられた十字架は、イエスの死で完結するものではなく、その先にある死からの復活と永遠の生命への道しるべ、さらには人類共通の敵である「死」への勝利の象徴である。

 

以上にまとめたように、私たちがキリストを信じ、そのキリストが示した復活を信じる以上、その象徴である十字架を讃美するのは当然だということになります。

 

しかし、現代社会では戦争は全くの愚行であると広く認識されているはずと書きましたが、現実にはそれに逆行する状況が今も起きています。

ウクライナだけではなく世界中で、です。

そして世界にはたくさんの宗教が存在しますが、少なくともキリスト教において救いとは、戦争で勝ちとるものではなく、キリストの言葉を信じて守ることによって得られるものであるはずです。

なぜならキリストは最初の宣教で説いた教え「真福九端」(マタイ5:3-11)で、「柔和な人々は幸いである」「憐れみ深い人々は幸いである」「平和を実現する人々は幸いである」と言っているからです。キリストが救いの実現のために他人を攻撃するように命じたことは、聖書のどこにも記されていません。

 

何度でも書きますが、キリスト教徒にもかかわらず戦争を推奨することは、キリストが十字架にかかった意味を無にするものです。

まして軍に志願して戦死することは国家に対する「自己犠牲」であり、キリストにならうものだといった類の言説は、聖書の曲解以外の何ものでもありません。背教そのものです。

私はキリスト者として平和実現のために祈りながら、苦しむ人々のために尽くす機会を求め続けます。