九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

秋分の日 奥球磨の文化財を探訪

昨夜は「多良木町交流館石倉」にコンサートを聴きに行きました。

この「石倉」は昭和10年に多良木農業会(現在のJAの前身)が米倉庫として建てたもので、国の有形文化財に指定されています。

都会ならともかく、交通の不便な奥球磨の多良木町に、このような歴史的建造物がリノベーションされて、今もイベントスペースとして生き続けているのが素晴らしいです。

多良木町交流館石倉(昭和10年築・国有形文化財

 

さて、秋分の日の昨日は天気も良く、日が暮れてから人吉から片道1時間近くかかる多良木までただ往復するだけなのも勿体ないので、早めに家を出て多良木周辺をドライブすることにしました。

 

ちょうどお彼岸の時期は春と秋の7日間ずつ、人吉球磨地方にある「相良三十三観音」(寺は35か所)が御開帳となります。つまり普段は閉まっているような寺院やお堂も、この期間だけは拝観できるということです。

人吉球磨は12世紀末、源頼朝に地頭に任じられた相良氏が1871年廃藩置県まで700年も治めた歴史ある地であり、このような土着の宗教遺産もたくさん残っています。

中でも特に多良木は相良氏が最初に館を構えた場所であり、それだけ文化財も多いです。

 

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まず訪ねたのは栖山観音。113段の石段を上るとお堂があります。

現在のお堂は1705年に建てられたものですが、鳥居が立っているところが何とも神仏習合的です。

栖山観音堂

内部の千手観音像は平安時代後期のもので、高さ283㎝あります。ともに立っている脇侍像も同時代の作で、全て熊本県指定文化財となっています。

栖山の千手観音像(平安時代後期・熊本県指定文化財

京都や奈良にある有名な仏像と違って、いかにも地元の素人が造ったような顔立ちなのですが、それがかえって900年近くも前の民衆の素朴な信仰心を偲ばせるように感じました。

 

観音堂のふもとにはたくさんのヒガンバナが自生していて、まさに花畑のようになっています。

栖山観音周辺に自生するヒガンバナ

多良木町から奥に行き、水上村に入るとすぐ生善寺に着きます。

この寺は1625年、人吉藩主・相良長毎が建立した寺で、観音堂は国の重要文化財に指定されています。

普段は非公開の堂内の意匠も素晴らしいものだそうですが、着いた時は16時過ぎで、御開帳の時間が過ぎていたのか、お堂は閉まっていて中は見られませんでした。

生善寺観音堂(1625年築・国重要文化財

この寺の創建の動機は「化け猫伝説」です。

1582年、この地の豪族の湯山宗昌が相良氏への謀反を疑われました。宗昌は逃亡してしまい、代わりに彼の弟で普門寺法印の盛誉が殺されて寺も焼かれてしまいました。

盛誉の母・玖月は愛猫「玉垂」に自分の血をなめさせ、末代まで相良氏に祟るように言い残して自害しました。

以後、化け猫が藩主の枕元に現れるなどの奇怪な現象が続いたため、事件から40年を経て、相良氏は普門寺の跡地に生善寺を建立。盛誉の命日の3月16日に毎年供養をしたところ、祟りは収まったとのことです。

そのため、この寺は今も「猫寺」という愛称で呼ばれています。

観音堂の裏には祭事用と思われる化け猫・玉垂の灯籠が収蔵されていました。

化け猫・玉垂の灯籠

 

寺の由来とは直接関係ありませんが、境内の天然記念物のクスノキの巨木が先週末の台風で裂けて、倒れていました。お堂のすぐ脇まで倒れ掛かっていましたが、お堂自体は無事だったようです。

台風で倒れた巨木

 

生善寺から2㎞ほど東に行くと、龍泉寺があります。

龍泉寺観音堂

こちらの聖観音像の制作時期は不明ですが、脇侍は1462年の作。水上村内で最古の仏像だそうで、三体とも水上村文化財に指定されています。

龍泉寺聖観音像と脇侍像(1462年・水上村文化財

この脇侍像も栖山観音像と同じく、こけしのような何とも素朴で可愛らしい顔立ちです。

 

龍泉寺を出るとコンサート会場の開場時間が近づいたので、寺巡りをお開きにして多良木に戻りました。

 

既に述べたように、この人吉球磨の地にはただ古い宗教遺産が形として残っているだけでなく、それが人々の土着の信仰心として今も生き続けていることが貴重だと思います。私自身はクリスチャンですから、仏像を拝むことはしませんが、たとえ宗教が違っても、地域の歴史と共に信仰心をも継承していくという文化は尊敬に値すると思っています。