九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

時代を拓いた女性たち 熊本四賢婦人とプロテスタント信仰

本日、6月16日は明治から大正にかけて活躍した教育者・社会活動家の矢嶋楫子(1833-1925)が永眠した日です。
彼女は幕末から明治にかけて、男尊女卑の価値観が当たり前だった時代に、女性の教育と地位向上の分野でリーダーシップを発揮した女性です。

そして何より、わが熊本県が生んだ偉人の一人です。

f:id:frgregory:20210616101641j:plain

矢嶋楫子

 

特筆すべきなのは、活躍したのは楫子ひとりだけでなく、彼女の三人の姉たちも同じだったことです。よって彼女たち矢嶋四姉妹は「四賢婦人」と呼ばれています。(きょうだいとしては二男七女)

 

熊本県益城町の生家の近くには「四賢婦人記念館」が建てられており、私も3月に訪ねてきました。

f:id:frgregory:20210616092738j:plain

益城町・四賢婦人記念館

元の記念館は旧矢島家の屋敷だったそうですが、2016年の熊本地震で全壊。2年ほど前に現在の記念館が新築されたと聞きました。

館内では町が出版した伝記漫画『四賢婦人物語』が販売されていたので、買って読みました。私もこちらに越して来てから、「熊本が生んだ四賢婦人」といった言葉を聞きながら詳しく知らないままでしたが、この本を読んでみて良く分かりました。特に明治時代のプロテスタントの著名人たち(いわゆる熊本バンド)が、矢嶋姉妹と深い繋がりがあることに改めて驚かされました。

f:id:frgregory:20210616092828j:plain

まんが『四賢婦人物語』

四賢婦人の長姉、矢嶋家三女の竹崎順子は、高名な学者・横井小楠の門弟の夫・律次郎と共に農地を開拓しながら、私塾を開いて子どもたちを教えました。そして60代になって、熊本初の女子校「熊本女学校」が開校した時に舎監、後に校長となりました。彼女は義理の甥で熊本女学校の初代校長・海老名弾正から薫陶を受け、プロテスタントの洗礼を受けました。

 

四女の徳富久子はなかなか男児に恵まれず、嫁ぎ先でいじめられながらも、生まれてきた子たちのしつけと教育を徹底。熊本洋学校、さらに京都の同志社で学んだ三人の子は、後のジャーナリストの徳富蘇峰、小説家の徳富蘆花、叔母の矢嶋楫子を助けた社会事業家の湯浅初子です。この子らも久子自身も洗礼を受けています。

 

五女の横井つせ子は父や兄、義兄たちの師・横井小楠の後妻です。小楠が暗殺されて、若くして未亡人になりましたが、子どもたちを立派に育て上げました。息子の横井時雄は同志社を出て牧師となり、新島八重の姪(山本覚馬の娘)時子と結婚。同志社の第三代総長となりました。また娘のみや子は熊本洋学校で学んだ海老名弾正と結婚。海老名は後に同志社の第八代総長となりました。つせ子は洗礼を受けませんでしたが、二人の子どもたちはもちろんプロテスタントです。

ちなみに横井時雄、海老名弾正、徳富蘇峰を含む、熊本洋学校プロテスタントの洗礼を受けた生徒35人は、明治9年(1876)に「奉教趣意書」という誓約書を作り、宣教グループを結成しました。これを「熊本バンド」と呼び、札幌バンド、横浜バンドと並ぶ明治日本のプロテスタント宣教の三大源流となっています。

 

六女の矢嶋楫子は酒乱の夫と別れ、40歳で兄の矢嶋源助を頼って上京。若い学生に混じって勉強し、教師になりました。そしてアメリカ人宣教師のマリア・ツルーと出会ってミッションスクールの新栄女学校の教師となり、彼女の薫陶でプロテスタントの洗礼を受けました。後に明治23年に新栄女学校と櫻井女学校が合併して女子学院となった時、57歳で初代院長に就任しています。

また、明治19年の米国婦人禁酒会の来日を期に、「婦人矯風運動」に参画。姪の海老名みや子や湯浅初子らと、女性たちを酒乱や売春などから救うための「東京キリスト教婦人矯風会」(現・日本キリスト教婦人矯風会)を立ち上げ、初代会頭となりました。

ちなみに彼女は女子学院に校則を作りませんでした。その理由として「あなたがたは聖書を持っています。自分で自分を治めるのです。善悪の判断は規則に任せるのではなく、良心がするべきです」と述べています。まさにクリスチャンの矜持そのものです。

 

こうして見てきますと、四賢婦人に共通するのは「教育熱心」と「他人のために尽くす奉仕精神」と言えます。もちろん、キリスト教信仰の影響もあるとは思いますが、彼女らはクリスチャンホームに生まれたのではなく(江戸時代ですから当然)、洗礼を受けたのは大人になってからです。つまり、キリスト教の影響というより、彼女たちが幼い時から培われた価値観がキリスト教、とりわけプロテスタンティズムと合致したのでしょう。こういう人々がキリスト教と出会ったというのも、神の計らいだったかも知れませんが。

その意味で、彼女たちを育てた両親は本当に偉大だと思います。

 

彼女たちの父、矢嶋忠左衛門は村の庄屋で、肥後藩の役人も兼ねていました。

地元の振興のために熱心に働いたことはもとより、向学心が高く、上述の横井小楠の門弟でもありました。幕末の富農出身で学問熱心というのは、今のNHK大河ドラマの主人公・渋沢栄一にも相通じるように思います。

彼と妻の鶴との間に9人の子どもがいましたが、彼らは男子だけでなく、娘たちにも読み書きを学ばせ、さらに質素倹約・自給自足のライフスタイルを徹底しました。

つまり彼女らの勤勉さや奉仕精神は、両親の薫陶の賜物なのです。

 

四賢婦人の伝記を読んで、子どもの教育と質素で勤勉な日常生活というのは、時代を超えて価値があると改めて思いました。

私たち夫婦も4人の子の親で、しかもクリスチャンですが、子どもたちに対してそこまで真剣に接していませんでした。

今さら遅いですが…今から自分だけでもしっかりします。