九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

子どもと天国~幼児の葬儀を司祷して

昨日は福岡市内でご葬儀を司祷しました。

個人情報の問題もありますので、被葬者は「不慮の出来事で突然亡くなった幼いお子さん」とだけ記します。

埋葬式の後、子どもの死で精神に変調をきたしてしまった母親と面会するように遺族から依頼されたので、収容された施設に会いに行きました。

自責の念から自ら死を選ぶおそれがあったためです。

私は、「私たちがイエスだけでなく、神でない生神女マリヤにも祈るのはなぜだと思いますか?マリヤはイエスにとってたった一人しかいないお母さんだからなんですよ。イエスを動かすのに母の祈りに勝るものはないからなんです。私たちはAちゃん(故人)のために祈っているけど、どんなに頑張っても私たちはAちゃんのお母さんにはなれない。だから、お母さんにお願いがあってここに来ました。Aちゃんのそばに行くことよりも、Aちゃんのために母親として祈ってもらえないでしょうか。それがAちゃんが一番喜ぶことだし、一番幸せにできることなんです」と呼びかけました。

本人は全く無表情だったのですが、私が上記の話をした時、一瞬だけ泣きそうな表情になりましたので、話は聞こえていたし、正気な部分もあったのではないかと想像します。ただ、私の言葉だけでは彼女を変えることは難しいように思いましたので、神に助けてもらうしかないのですが…

そのようなわけで葬儀自体は午前中でしたが、福岡を発ったのは夕方で、人吉に着いたのは夜の8時半になってしまいました。

 

さて、今回の被葬者は幼児だったため、葬儀は一般的な「俗人埋葬式」の祈祷文ではなく、「嬰児埋葬式」という特別な祈祷文を用いました。私は輔祭だった時に一度だけ嬰児埋葬式に立ったことがありますが、司祭になって自分が司祷するのは初めてです。

祈祷文の違いを一か所だけ例に挙げると、俗人では「寝りし神の僕○○の霊の安息のため、および彼に凡そ自由と自由ならざる罪の赦されんがために祈る」というところを、嬰児では「福たる嬰児○○の安息のため、および主がその偽りなき許約によりて、彼にその天国を獲せしめんがために祈る」となります。

つまり一般の葬儀は、「故人が生前に犯した罪を赦し、天国に受け入れてくれるよう、故人本人に代わって神に懇願する」趣旨であるのに対し、幼児の葬儀は「罪を犯すことなく世を去ったこの子を、約束された天国に託す」という趣旨で行われるということです。

 

この違いは「幼児には罪がない」という考えによります。

 

福音書には、イエスに子どもたちを祝福してもらおうと親子連れが集まってきた時、弟子たちは彼らを叱りつけたが、イエスは「子どもたちを来させなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」(マタイ19:14)と言って、子どもたちを祝福したと書いてあります。

これが「生まれてきた子どもたちには罪がない。だから天国も大人以上にふさわしい」と、私たちが考える根拠です。

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ルーカス・クラナッハ「子どもたちを祝福するキリスト」


 

そもそも創世記の記述によれば、天国とは神の似姿として造られ、神と共に永遠に生きる存在であるはずの人間のために用意された場所です。

神は最初の人間、アダムとエヴァに「園の全ての木から取って食べなさい。ただし善悪を知る木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2:16-17)と命じました。

これは、人間には神と同じ「自由な意思」 が与えられていて、人それぞれの自由な生き方が許されている。しかし、禁じられた実を食べる、つまり「自由な意思に基づいて神に背く」ことは、永遠の命を喪失させ、死という結果がもたらされると神はアダムに予告した、と正教会では解釈します。そしてこの「自由な意思に基づき、思考や行動において神に背く」ことを「罪」と定義します。

 

アダムとエヴァは結局、自分の意思において神に背き、禁じられていた木の実を食べてしまいました。その結果、人は天国を追放され、いつか死ぬ存在となりました。

つまり人がこの世で死ぬのは、「アダムとエヴァが犯した罪のため、神の予告通りの結果になった」ものと考えます。

これに関して「アダムとエヴァが犯した罪を受け継いで、人類は『罪人』として生まれて来る。その罪の罰として人は必ず死ぬ」という考え方があります。これを「原罪論」といいます。

この原罪論はアウグスティヌスが唱えた教説であり、西方教会の基本的な教理となっていますが、正教会は「神が悪を創造してしまったこと」に繋がりかねないので、原罪論を全面的に否定します。罪や悪は、一人ひとりの人間が神から与えられている自由な意思の濫用であって、死はその人の罪ではなく、上記のようにあくまでも「アダムとエヴァの罪の結果」であると考えます。

よって「人間は罪のない赤ちゃんとしてこの世に生まれて来る。しかし、罪の支配するこの世に生きることで、どこかの段階で自らの意思で罪を犯してしまう」と理解しています。

 

今回Aちゃんが亡くなったことでご遺族は皆、当然ながら途方もない悲嘆にくれていました。しかし、神は罪なく世を去ったAちゃんに天国を用意してくれているから心配はいらない、だから地上で成長する機会を断たれたことを悲しむより、天国での永遠の幸せを祈ってあげた方が良い、というのが正教会からのメッセージです。

Aちゃん本人以上に、病んでしまったお母さんをはじめ、ご遺族の皆様の心が安んぜられることを切に祈っています。