日本正教会では明日の1月7日(ユリウス暦の12月25日)が降誕祭です。私は福岡で降誕祭の祈祷を執り行うことにしています。
今日は降誕祭の前日、英語でいうクリスマスイヴです。
クリスマスイヴとは、わが国では「クリスマスの前夜」と誤解されている向きがあるのですが、日没から新しい日が始まるというのが伝統的なキリスト教の考えなので「前夜=当日」です。よってクリスマスイヴとは「降誕祭の前の日(日中)」を指すというのが正しい理解です。
正教会には降誕祭当日の祈祷とは別の典礼で「降誕祭前日の奉事」もちゃんとあります。
私も司祭になって、これで14回目の降誕祭の日となるわけですが、司祭である以上当然ながら冠婚葬祭(圧倒的に多いのは葬儀)も数多く執り行ってきました。
冬の時期、特に年末年始の前後は寒さが厳しいからか、永眠される方も少なくありません。そういうケースでは対応で暮れも正月もなくなってしまいます。
たまたま私のところでも、大晦日に横浜市在住の伯父(母の兄)が亡くなりました。これから行われる葬儀は仏式で家族葬とのことで、また私も遠方に住んでいるため、欠礼せざるを得ないのですが、暮れも正月も無くなってしまった従兄弟(故人の息子)は大変だなと思っています。
さて同じ大晦日、前ローマ教皇・ベネディクト16世が永眠されました。
他教派の方なので、わが教会として特段の弔意を示すことはないのですが、「バチカン・ニュース」に前教皇が言い残した最後の言葉が紹介されていたのを見て、考えさせられました。
記事によれば、前教皇は永眠の数時間前、イタリア語で「主よ、愛しています」と言い、それが最後の言葉になったというのです。
「主よ、愛しています」ベネディクト16世の最後の言葉 - バチカン・ニュース https://t.co/Z10FX8vnov
— 九州の正教会 日本ハリストス正教会九州管区 (@ocjkyushu) 2023年1月4日
記事の中でフランシスコ現教皇が以前に、ヨハネによる福音書21章を引用して話したコメントも紹介されていますが、私も見出しを見た時にまさに同じ個所を思い出しました。
いわゆる最後の晩餐の時、「たとえ、みんながあなたにつまづいても、わたしは決してつまづきません」と言うペトロに、イエスは「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告しました。(マタイ26:33-34)
そしてその言葉のとおり、イエスが捕まって裁判にかけられている時、ペトロはイエスの仲間だと追及されて「そんな人は知らない」と三回否認しました。(マタイ26:69-75)
復活したイエスは弟子たちの前に、復活の日の夕刻に現れた(ヨハネ20:19)のを皮切りに何度も現れました。そして、彼らがティベリアス湖で魚を獲っている時にも現れたのです。
イエスはペトロに「ヨハネの子シモン(シモンはペトロの本名)、わたしを愛しているか」と同じ質問を三回繰り返し、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」とその都度答えました。するとイエスは彼に「私の羊を飼いなさい」と言いました。(ヨハネ21:15-17)
このエピソードはイエスを三度否んだペトロに、三回「愛しているか」と問いかけることでペトロを回心に導いたという説明がなされます。
その解釈自体はもちろん間違っていませんが、しかし不十分でもあります。
なぜならイエスを裏切り、否認した者はペトロだけではないからです。
イエスの逮捕の時、逃げてしまったのはペトロだけではなく、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14:50)と書かれているように、他の弟子たちも同じでした。つまり、イエスよりも自分の方が大事だったということです。
さらに他の人々はどうでしょう。総督ピラトはイエスに死刑判決を下す理由が見いだせず、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言っているにもかかわらず、群衆はこぞって「十字架につけろ」と叫びました。(マタイ27:23)
かつてイエスは奇蹟を行い、多くの病者や障害者を助けたのであり、そのことは当然多くの人が知っていたはずです。しかし、その場で「この人は良いことをしてくれて世話になった。彼は無罪だ」と言った人は、少なくとも聖書には一人も書かれていません。
つまり、「人間は誰でも、神を裏切ってしまう」のです。
よってイエスのペトロへの問いかけも、単に二者間の和解にとどまらず、全ての人間に対する普遍的な問いと解するべきです。
つまり「神である私は、あなたたち人間がどんな罪に陥ろうと愛している。人間であるあなたはどうなのか」ということです。
それに対して「こんなに罪深い私を愛してくださっているイエスを、私も愛しています」と言い切れることに、神の救いがあるのです。
つまり「神は模範的な人、優秀な人だけを選んで愛するから、神に気に入られるような立派な人間になりましょう」ではなく、「自分がどんな罪深かったとしても神は愛してくれるのだから、その罪と向き合って悔い改め、自分も心から神を愛しましょう」というのが、キリスト教の考え方です。
話を前教皇に戻すと、彼は95歳での大往生でした。そのくらい長命な人が人生の最後に言い残す言葉として思いつくのは、たとえば「〇子(妻の名)、ありがとう」という周囲への感謝、「ああ、いい人生だった」という自分自身の満足感、「(子や孫に)お前たち、仲良く暮らせよ」という遺族への伝達事項などでしょう。要するにこの世のことに対する自分の思いの表明です。
しかし、前教皇は最期にこの世への思いではなく、神への愛を表明しました。
私も今年で還暦となり、平均余命まで生きられてもあと20年くらいの人生でしょう。もしかしたら病気でもっと早く、さらには突然にこの世を去る時が来るかもしれません。
「主よ、愛しています」という最後の言葉に、彼が教皇であるとかないとかに関係なく、一人のクリスチャンとして、私も人生の最後まで神への愛を貫けるよう見習いたいと思いました。
もっとも私が「主よ、愛しています」と言い残して死んだら、妻は後々まで「あの人が愛していたのは私じゃなくて神だったのね」と言いそうですが…「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)というイエスの言葉にならって、今後は妻や他の周りの人ももっと大切にするように心がけます(笑)。