九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

九州大学と第九

九州、とりわけ私が住んでいる福岡では、地元の旧帝大である九州大学が、文字通り地元の最高学府として絶大なステイタスを持っています。

 

9月16日(月)、その九州大学の「第九日本人初演100周年記念事業」として、九大フィルハーモニー・オーケストラによるベートーヴェン作曲の交響曲第九番、いわゆる「第九」の演奏会がアクロス福岡で行われ、私も縁あって九大の関係者の方たちとともに合唱で参加しました。(私は九大卒ではありませんし、九州出身でもありませんが…)

九大フィルは1909年創部の九州帝国大学フィルから続く、国内でも有数の学生オーケストラですが、今回はオケの自主公演ではなく、天下の九大の主催イベントというところがミソです。

当日はオケが約100人、合唱が約180人の大編成で、しかも約1500席あるアクロス福岡の客席が聴衆で満員になりました。改めて福岡での「九大ブランド」の威力(?)を実感しました。

しかもオケも名前だけのブランドではなく、まるで音大生が演奏しているように上手で驚きました。

当日開演前のゲネプロ

 

ベートーヴェンの第九は世界的に、そしてもちろん日本でも有名な楽曲であることは言うまでもありません。

その第九の日本初演は1918年6月1日、徳島県の板東俘虜収容所で行われました。演奏者はすべて第一次大戦中、青島で日本軍の捕虜になったドイツ兵たちでした。

これは結構有名なエピソードであり、2006年に「バルトの楽園」と題して映画化されています。

 

軍楽隊など、音楽的なスキルがあった兵士が相当いたとは思いますが、それにしても第九は室内楽吹奏楽ではなく、ご存じのとおり合唱付きの管弦楽作品です。

オーケストラの各楽器を演奏でき、さらには原曲の混声のソロと合唱を男声合唱に編曲して歌う(原曲はソプラノの音域がかなり高いので、そのままでは男声には厳しいはず)など、当時のドイツ兵の音楽的ポテンシャルってどれだけ高いのかと驚嘆します。

 

日本人による第九の初演は1924年11月29日、東京音楽学校(現・東京芸術大学管弦楽団と合唱団により行われたというのが定説で、東京芸大のサイトにもそのように書かれています。

 

しかし、同じ1924年の1月26日、福岡で第九の第四楽章の一部に日本語の歌詞をつけた「新編奉祝歌」が、九州帝国大学フィルハーモニーと学生らの合唱団で演奏されたことが分かりました。

九州大学はこれをもって、第九を初演した日本人は東京音楽学校ではなく、九州帝大フィルだとし、その時から今年が100周年となることを記念して、今回の演奏会を企画したわけです。

ちなみに偶然ですが、作曲者のベートーヴェン自身が第九を初演したのは1824年5月であり、今年は第九初演200周年の記念の年でもあります。

 

九州帝大フィルが演奏を行ったのは、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御成婚当日でした。

皇太子御成婚という慶事を記念して、文部省が「皇太子殿下御成婚奉祝歌」という歌を発表し、また御成婚当日に全国各地で祝賀イベントが開催されました。

福岡で開催された祝賀イベントが、九州帝大フィルによる「摂政宮殿下御成婚奉祝音楽会」です。

この時、指揮者だった榊保三郎が第九のドイツ語の歌詞を上記の御成婚奉祝歌の歌詞に書き換え、「新編奉祝歌」というタイトルをつけて演奏したのです。

「今日しも挙げます畏き御典 喜び言祝ぐ我等の声は」という調子です。(昔の歌なので著作権は関係ないと思いますが、歌詞を全部載せることは控えます)

ちなみに榊は本職の音楽家ではなく医学部の教授、つまり医師です。

つまり指揮者もオケも合唱も、みなアマチュアだったということです。

榊保三郎教授(九大提供)

 

この演奏会で使われた楽譜は近年、それこそ東京音楽学校の後身である東京芸大で発見されました。

今回の演奏会では100年前の再現ということで、メインステージの「本物」の第九の演奏の前に新編奉祝歌も歌いました。

私自身は過去に第九の合唱を何十回も歌っていますから、ドイツ語の歌詞で暗譜していますが、日本語の歌詞は当然とはいえ曲の音型と語呂が合っていなくて、とても歌いにくいものでした。文語体の日本語の歌詞+西洋の楽曲というのは、日本正教会の聖歌と全く同じパターンなので、個人的には慣れているはずなのですが…

九大が今回作成した「新編奉祝歌」の合唱譜


つまるところ、この時に九州帝大フィルが演奏したのはオリジナルの第九ではなく、所詮「替え歌」であり、しかも第一楽章から第三楽章までは演奏していないのですから、それをもって第九の初演と呼べるかどうかは議論が分かれるところでしょう。
しかし歌詞はともかく、また第四楽章の一部だけだったとはいえ、オケの部分はベートーヴェンが作曲したとおりの「第九」であることに間違いはなく、アマチュアの九大の学生がそれを日本人として初めて人前で演奏したことも事実です。

第九というクラシックの大曲を、日本で初演したのがアマチュアのドイツ兵たちであり、日本人として初演したのがこれまたアマチュアの九大の教授と学生だったというのは、音楽史上でも珍しいエピソードのように思います。

 

日本は「第九」がいわば年末の恒例行事としてあちこちで演奏され、しかも普段合唱をしたことのない人々の参加も少なくないという、世界的にも珍しい社会なのですが、日本の第九演奏がアマチュアから始まったということも、面白い結びつきだと感じています。

 

九大出身者でもあまり知られていない「九州大学と第九」の関係のお話でした。