今日は今年最初の日曜日。
人吉ハリストス正教会で、新年聖体礼儀を執り行いました。
私たち夫婦以外に参祷者は誰も来なかったので、マスクなしで祈祷しました。心置きなく発声できて、気分爽快です。
私は教会を司牧している立場ですから、「初詣は教会へ」などとキャッチフレーズをつけて教会報などで呼びかけてはいます。
しかし、人吉のように典型的な地方社会では、正月三が日は家に親族一同が集まり、祝いの膳を囲んで過ごすのが、それこそキリスト教が伝わる以前からの伝統的な習慣です。まして聖体礼儀で聖体(パンと葡萄酒から変化したキリストの体と血)に与るには、朝から何も食べずに教会に来て、開式前に痛悔機密(司祭の前で自分の罪を告白し、神の赦しを得ること)を受けなくてはなりません。
要するに教会が「初詣」という言葉を使ったとしても、神社で柏手を打って帰ってくればOKという、日本古来の「初詣」の伝統的な感覚と、参祷のハードルが高くて時間も長いキリスト教の礼拝とは、文化自体が相容れないのです。
そういう伝統的な地域文化との乖離に対して、司牧者が「信者なのに教会をサボるなんてけしからん。罪深いにも程がある」と怒ったところで意味がありません。信仰は本人の心の問題なのですから、本人が教会の祈祷に与りたいと思うならもちろん歓迎だし、正月くらい都会から帰省した親戚と水入らずで過ごしたいと言うなら「どうぞ。私はこちらで皆さんのご多幸を祈っています」です。
もちろん司祷する側としては、誰も教会に来ないよりは、参祷者がたくさんいる方が良いに決まっています。しかし、それはプロスポーツ選手や音楽家のように観客が多い方がやる気が出るとか、たくさん献金が入るからとか、そういう理由ではありません。自分が教会で授ける聖体を通して、神の恵みを分かち合う信者がより多くいれば、それだけ良いというだけのことです。
ですので、教会に100人来ようと誰も来なかろうと、私が教会で「人のために」祈っていることには変わりないし、まして参祷者が少ないから祈りを手抜きすることなどあり得ません。
今日も聖体礼儀を省略することなく執り行い、自分以外に妻だけしかいない聖堂で説教もしました。
使徒パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケ前5:16-18)と言っています。私はただそれを心掛けるだけです。
そのようなことで、今日は妻と二人でしっかりと「祈り初め」をして、今年の教会活動をスタートしました。
昨日も書きましたが、この一年が「希望」の見える年になってほしいと願っています。