九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

エルサレムの神殿 ユダヤ人の信仰のアイデンティティ

本日、9月7日は西暦70年、ユダヤ戦争においてローマ軍がエルサレムを占領した日です。

 

西暦66年、ローマ帝国ユダヤ属州総督がエルサレムの神殿の宝物を略奪したことをきっかけに、ユダヤ人による反ローマ暴動が発生しました。エルサレムの神殿は当時のユダヤ人のアイデンティティの象徴であり、彼らには断じて許せない行為だったのです。暴動はユダヤ全土に拡大し、ローマとの全面戦争になりました。これが歴史でいうところの「ユダヤ戦争」です。

 

戦争は長期化しましたが、ついにティトゥス将軍(後に皇帝)によってエルサレムは陥落。神殿は破壊されました。

この勝利を記念してフォロ・ロマーノに「ティトゥス凱旋門」が建てられました。これは後世の凱旋門の建築モデルとなりました。一番有名なのはもちろん、パリの凱旋門です。

ちなみに「ティトゥス凱旋門」にはエルサレムの神殿から戦利品を運び出す兵士の姿がレリーフになっています。このことからも、ローマがユダヤ人を屈服させるための最終目標が「エルサレムの神殿の破壊」にあったことは明らかです。

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ローマ市ティトゥス凱旋門

以後、ユダヤ人はパレスチナ地方を追われ、1948年のイスラエル建国まで2千年近くも祖国を持たない「ディアスポラ」の時代を送りました。彼らはこれを苦難の歴史ととらえています。

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フランチェスコ・アイエツ「エルサレム神殿の崩壊」

なお崩れずに残った神殿の西側の壁は「嘆きの壁」と呼ばれ、ユダヤ人にとって最も重要な聖地となっています。

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嘆きの壁(旧エルサレム神殿西壁)

 

 

さて紀元前10世紀、ソロモン王によってエルサレムに最初の神殿(ソロモン神殿)が建てられました。それまでユダヤ人の祈りの場は幕屋、あるいは屋外の祭壇であって、恒久的な建物としての神殿はありませんでした。

旧約聖書の列王記上巻6章には神殿建設のプロセスが記されていますが、「その建築には7年を要した」(列王記上6:38)とあり、大変な手間暇をかけた壮大な建物であることが伺い知れます。

 

しかし、この壮麗なソロモン神殿は紀元前586年、ユダヤを征服したバビロニアネブカドネザル王によって破壊されてしまいました。ネブカドネザルは全てのユダヤ人をバビロニア強制移住させ、奴隷にしました。これを「バビロン捕囚」といいます。

ちなみにヴェルディの歌劇『ナブッコ』は、このバビロン捕囚をテーマにした作品です。劇中でユダヤ人が望郷の念を歌う合唱『行け、思いよ。黄金の翼に乗って』は大変有名です。なお、ナブッコとはネブカドネザルのイタリア語読みです。


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ちなみに、このソロモン神殿が破壊された日と上記の西暦70年のローマによる神殿破壊の日は、偶然同じユダヤ暦の6月9日(ティシャ・ベアヴ)であったことから、ユダヤ教ではこの日を「悲しみの日」と位置付けています。

 

この捕囚時代、異教徒の奴隷となったユダヤ人にとって、民族的アイデンティティの拠り所は「唯一の真の神」、つまり一神教信仰であり、それを通して民族的な一体感はかえって強まりました。

旧約聖書のダニエル書3章には、ネブカドネザル王が金の偶像を建て、それを拝むよう民に強制した時、崇拝を拒否した3人のユダヤ人の若者が燃え盛る炉の中に投げ込まれたが、神に護られて全く無傷だったという出来事が記されています。

 

紀元前537年、バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシャのキュロス二世は、ユダヤ人の解放を決定。ユダヤ人は半世紀ぶりに故郷に帰還し、紀元前516年に神殿(第二神殿)を再建しました。信仰の勝利宣言という位置づけといえます。

 

紀元前2世紀、ユダヤセレウコス朝シリアに征服されました。エルサレムの神殿はギリシャ神話のゼウスの神殿に変えられ、律法に基づくユダヤ的な生活様式は禁止されました。

このため紀元前167年、ユダヤ独立を目指してユダ・マカバイを指導者とする「マカバイ戦争」が勃発。紀元前165年12月25日、ユダヤ軍はエルサレムの神殿を奪回し、勝利を収めました。この出来事を記念するユダヤ教の大祭が「ハヌカ」です。

ちなみにヘンデルマカバイ戦争をテーマに作曲したオラトリオが『マカベウスのユダ』です。全曲を聴いた人は、私も含めてあまりいないと思いますが、作中の『見よ、勇者は帰りぬ』はわが国では表彰式でお馴染みです。


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このエルサレム第二神殿は、ヘロデ大王が紀元前20年に大規模に増築しました。このため、それ以前と区別して「ヘロデ神殿」と呼ぶこともあります。ヘロデ大王はイエスが生まれた当時の王であり、また新約聖書に出てくる「神殿」とはこのヘロデ神殿を指します。

 

このような経緯があり、イエスの時代のユダヤ人にとって、神殿は他のものをもって代えられない民族的アイデンティティの象徴だったのです。ですから、当時の宗教指導者、すなわちユダヤ人社会の指導者にとって、イエスが「わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる」(マルコ14:58)と言ったというのは、そのアイデンティティへの冒涜に思えて、断じて許せないことだったわけです。

 

もちろん、イエスがいう三日で建てる神殿とは、地上の建造物ではなく、死んで三日目に復活するイエスご自身のことです。

地上のエルサレムの神殿は、イエスの死と復活の三十数年後に実際に倒れてしまいました。しかし、私たちキリスト者にとって拝むものは地上の神殿や偶像ではなく、イエス・キリストの死と復活という「事実」なのです。

もちろんキリスト教、とりわけ正教会にも聖堂があり、イコンがあります。しかし聖堂は中で祈るための場所であって、神社のように拝むための場所ではないし、イコンも拝む対象ではなく、祈る対象を示すためのツールです。

言いたいことは、社会にはいろいろな宗教が存在しているけれども、その宗教にはその宗教のアイデンティティの拠り所があるということです。その違いを理解した上で、自分の信仰の「拠り所」を求めていくべきと考えています。