九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

主の迎接祭~「長生き」と「幸福感」を結びつけるヒント

2月15日(ユリウス暦の2月2日)は降誕祭から40日目であり、正教会では「主の迎接祭」という祭日です。

これはイエスが生まれて40日目に、律法(この場合は旧約聖書レビ記12章)の定めに従って、エルサレムの神殿に捧げられるためにお参りしたことを記念するものです。

この時の出来事はルカによる福音書2章に書かれています。それによれば、救世主の到来を長い間待ち望んでいたシメオンという老人が神殿でイエスを迎え、神を讃美したとあります。

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山下りん画「主の迎接」

この祭が提示している 命題は何なのか。資料を調べてみると「救いを待ち望む全ての人々に救いがもたらされた」「神が人となった救世主が律法に従ったように、信者も律法に従わなくてはならない」「幼子イエスが神殿に捧げられたように、信者の子には幼児洗礼を受けさせるべきである」などと書いてありました。

それ自体は教会が伝統的に説いてきている教えですから、否定するつもりは全くありませんが、だからといってそれを杓子定規に現代の信者の前で説教しても「まるで心に訴えない」とも思います。

そもそも「全ての人に救いがもたらされた」ことは降誕祭で提示済みです。さすがにどんな小さな教会でも降誕祭の祈祷はするでしょうから、そのメッセージも信者に伝えているはずです。

また、正教会は伝統的に、信仰を「神が人間一人ひとりに与えた自由な意思に基づく」ものと考えており、さらに現代は基本的人権としての信仰の自由の原則が定着しています。よって宗教が「○○しなければならない」「○○すべきである」という要求を前面に押し出すのは、いささか時代錯誤的と言わざるを得ません。

 

上記の福音書には、シメオンは「救世主に会うまで決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(ルカ2:26)と書かれています。シメオンと一緒に登場する預言女アンナは84歳(同2:37)と明記されているのに、シメオンの年齢が不明なのは彼女より年長で、相当なレベルの高齢者だったと読み取れます。

また、シメオンが神を讃美した言葉は「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです」(同2:29-30)とあります。

これらのことから、シメオンにとっては「いつか救世主を迎えて接する(迎接)日がきっと来る」と信じることが生きる希望だったのであり、それが成就されたから「これで安らかにこの世を去ることができる」と言ったと解釈することができます。

 

エスの時代と違って、今日の日本は超高齢化社会です。平均寿命は男性81歳、女性87歳であり、上記の預言女アンナさえ今の日本人の平均寿命より若いくらいです。また、昨年9月時点でわが国の100歳以上人口は8万人を超えました。シメオンが仮に100歳だったとしても、今の日本では珍しくありません。

しかし、その現代日本社会で、果たして「自分は長生きして幸せだ」と言い切れるのか。そこが一番重要なのではないでしょうか。

 

社会に不満があったとして、いくら「政府が悪い」「自分は不幸だ」と愚痴をこぼしたところで、肝心の社会が変わらなければ何も解決しないですし、人吉の水害も一昨日の東北の大地震もそうですが、わが国には自然災害などで不可抗力的に一瞬で生活環境が崩壊してしまうリスクも少なくありません。

しかし、いくら社会や環境が変わろうとも、自分が「生きる希望」「心の支え」を持ち続けていれば、生きていること自体を幸せだと感じられるし、いつか必ず来る死でさえも安心して受け入れられるでしょう。つまり、長生きしながら人生の最後まで幸福感を持続させることが可能になるといえます。

この救世主の到来を信じ、それを心の支えに生き続けたシメオンのように、私たちのキリスト教信仰は「この世だけで終わらない永遠の生命の提供」という意味で「生きる希望」「心の支え」の一つの選択肢にならないでしょうか。選ぶのはあなたです。考えてみませんか…それが、迎接祭が現代社会に生きる私たちに提示しているテーマだと私は考えます。

 

主の迎接祭にあたり、今を生きている人々の心に届くメッセージを、いつも発信し続けられればと思いました。