月曜日からご葬儀の司祷のため、二泊三日で長崎県大村市に出張していました。
予備知識がなかった、あるいは習ったのに忘れていたのですが、日本史の中で大村は何度も登場しており、今もいろいろな遺構が残っています。
そこで空き時間にそれらを見て回りました。
大村駅前に長崎県と大村市が共同運営する図書館兼歴史博物館の「ミライon」があります。新しくて立派な建物です。
市のメインの駅前に役所でも商業施設でもなく、図書館兼博物館を建てるとは文化重視のポリシーですね。感心します。
そこに行って大村についての知識を整理しました。
大村は中世から幕末まで一貫して戦国大名の大村氏の所領でした。
12代目の大村純忠は日本で最初のキリシタン大名です。彼は同じキリシタン大名の大友宗麟や有馬晴信と共に、バチカンに「天正遣欧使節」を送りました。
この使節の存在は当然知っていたのですが、大村氏が関わっていたことはコロッと忘れていました。
純忠はさらに、南蛮貿易のために長崎を新たに開港。1580年にはなんと長崎をイエズス会に寄進してしまいました。
彼はイエズス会やその背後のポルトガルと親密になることで、大村に南蛮の文化や物品をもたらすことに成功したのですが、その一方で領民にキリスト教を強制し、神社仏閣を破壊したり、先祖の位牌を焼き捨てたりしたため、残念ながら主君としてはあまり評判が良くなかったようです。彼は当時のカトリック教会と同じことをしたまでですが、過去の人々に敬意を払わずに他人に信仰を強制するのは絶対良くないです。私もキリスト教徒ですが…
1587年の純忠の死のすぐ後、豊臣秀吉が伴天連追放令を発布。長崎をイエズス会から没収して直轄領とします。純忠の子の喜前はあっさり棄教し、領内のキリシタンを迫害しました。 この結果、長崎の信者は「隠れキリシタン」となりました。
手のひら返しもいいところなのですが、大村家を守るためには仕方ないですし、そもそも喜前も他の家臣も純忠にキリスト教を強制されて、かえって嫌いになってしまったのかも知れません。
さらに関ケ原の合戦で大村喜前は東軍に味方し、所領を安堵されて大村藩の初代藩主となります。
そして居城として玖島城を建て、堀に花菖蒲を植えさせました。
城跡の大村公園に行ったらちょうど菖蒲が見頃を迎えていました。
さて幕末に、最後の藩主となった大村純煕は薩長側につき、倒幕に貢献しました。その結果、大村藩は2万7千石の小藩であるにも関わらず、戊辰戦争で新政府から3万石もの褒賞を得ました。これは薩摩と長州の10万石、土佐の4万石に次ぐ第四位の評価です。
この時、大村藩の維新の立役者になったのが勤王三十七士と呼ばれる、37人の若手藩士です。
三十七士のリーダーの渡辺清は西郷隆盛の東征軍の参謀であり、西郷と勝海舟の江戸開城交渉に立ち会った人物。幕末物の時代劇では西郷と勝が二人で直談判しているように描かれるのが普通なので、渡辺の存在は全く知りませんでした…
三十七士の一人、楠本正隆の家は現在も残っており、一般公開されています。幕末の大村についての資料がたくさん展示されています。また庭園が特に立派で、大村では七五三や成人式、結婚式の記念写真の撮影場所として定番とのことでした。
ちなみに楠本正隆という名は恥ずかしながらこれまで知らなかったのですが、大久保利通の腹心で、新潟県令、東京府知事、衆議院議長などを歴任した超大物の官僚政治家です。
楠本邸の近くには、江戸時代まで円融寺という寺だった場所に石庭があり、そこに三十七士の碑と戊辰戦争で戦死した藩士の墓碑が建っています。
この三十七士ら、藩士たちが教育を受けたのが藩校の五教館。大村公園の向かいの大村小学校がかつて五教館のあった場所です。藩主が通る「御成門」は、大村小の入学式と卒業式の時だけ今も開かれるとのこと。
また、御成門のそばには渡辺清の娘で、日本初の知的障害児教育施設の「滝乃川学園」を創立した石井筆子の像があります。
屋敷は旧楠本邸以外には一軒、中尾邸しか残っていませんが、あちこちで五色塀というカラフルな石を塗りこめた独特な武家屋敷の塀を見ることができます。
時代劇ではあまり取り上げられない大村ですが、日本の歴史にいろいろな足跡を残し、またその町の歴史が今も生き続けているという意味で、とても魅力的な場所でした。