九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

唐津歴史紀行

7月2日の昼に伊万里市内で信徒訪問を済ませ、九州の歴史ある城下町である唐津に向かいました。

 

唐津は長く松浦党の波多氏の所領でしたが秀吉に滅ぼされ、1594年に秀吉の腹心の寺沢広高の所領となりました。広高は朝鮮出兵で、名護屋城の普請やマネジメントを担当し、出世した人物です。しかし彼は秀吉の死後、家康に接近。関ヶ原では東軍に味方し、天草を加増されました。なかなか立ち回りが上手いです。

広高の死後間もなく、寺澤家は島原の乱勃発の責任を取らされて天草を没収され、藩主の堅高も自害して断絶。以後、大久保氏(29年間)、松平氏(13年間)、土井氏(71年間)、水野氏(65年間)と藩主が交代。1817年に入部した小笠原氏が幕末まで続きました。

九州では戦国大名が幕末まで藩主を務めた藩ばかりですが、唐津は例外的に「転勤族」の譜代大名が治めていたのです。ちなみに徳川幕府の最後の老中・小笠原長行は、唐津藩の若殿でした。

 

唐津藩主で有名な人物は、天保の改革を行った老中・水野忠邦でしょう。彼は1812年唐津藩主を継いだ後、幕閣での出世を目指して猟官運動を展開。九州の藩主のままでは中央の仕事が回って来ないと分かり、幕府に1万石返上する見返りに異動を願い出て、1817年に浜松に転封しました。以後、彼は大阪城代京都所司代を経て、ついに筆頭老中の地位を手にしたのです。自分の出世のために平気で領地・領民を見捨てるなんて悪い殿様ですね。

 

さて、藩の政庁の唐津城は、初代藩主の寺澤広高が1608年に建てました。廃藩置県で城は取り壊され、現在の城は昭和41年に造られたものです。内部は歴史博物館になっています。

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唐津城天守

寺澤広高は築城だけでなく、海岸に防風林として100万本の松を植えさせました。これが日本三大松原の一つ「虹の松原」です。

東西4.5㎞あり、横を車で通ってみましたが実に広大でした。

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虹の松原にて


さて唐津で有名なのは毎年11月2日から4日まで行われる唐津神社の例大祭唐津くんち」です。唐津くんちは1980年に国の重要無形民俗文化財、2018年にユネスコ無形文化遺産に指定されています。

唐津神社は755年(奈良時代!)創建の歴史ある神社で、寺澤広高が唐津に入部して再興しました。以来、秋祭が続けられていたのですが、1819年に巨大な山車「曳山」の第一号・赤獅子が奉納されて以来、約60年間で城下の各町が競って曳山を制作し、今は14台の曳山が町を練り歩く勇壮な祭となっています。

この曳山は普段は唐津神社そばの曳山展示場に保管され、常設展示されています。どれも造られて150年から200年経っているものばかりですが、ちゃんとメンテナンスされて光り輝いています。

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曳山展示場

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一番曳山「赤獅子」(1819年)

明治維新を迎えて、唐津藩唐津県となりました。知事の小笠原長国(最後の藩主)は明治4年、旧藩士のための英学校「耐恒寮」を開校。米国帰りで弱冠18歳の高橋是清(後の首相、蔵相)を知事の3倍の俸給で教授に迎えました。この耐恒寮跡は現在、早稲田佐賀高校となっています。 

 

是清の生徒の一人に建築家の辰野金吾(1845-1919)がいます。辰野は耐恒寮を経て、東京の工部省工学寮(現・東大工学部)でジョサイア・コンドルニコライ堂鹿鳴館の設計者)から建築学を学び、自身も建築家として東京駅、日銀本店、大阪市中央公会堂(すべて重要文化財)などを設計しました。

市内には辰野が設計し、1912年に建てられた旧唐津銀行本店があり、現在は「辰野金吾記念館」として無料公開されています。97年まで佐賀銀行が使用していたそうですが、ヨーロッパの銀行のような壮麗な建物です。

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辰野金吾記念館(旧唐津銀行本店)

この唐津銀行の創立者・大島小太郎(1859-1947)は、耐恒寮で辰野の同級生でした。大島が1893年に建てた屋敷は「旧大島邸」として、唐津市の管理でイベントスペースとして貸し出されています。

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旧大島邸

旧大島邸のすぐ近くに、炭鉱王・高取伊好(1850-1927)の屋敷「旧高取邸」があり、国重要文化財に指定されています。

高取は佐賀藩出身で、慶應義塾や工部省鉱山寮で学んだ後に工部省の技官となり、九州の炭鉱開発に従事しました。1885年に独立した後、佐賀県内の炭鉱開発に成功して大富豪となり、69歳でビジネスを引退して8年後に亡くなるまで、唐津の屋敷で悠々自適の余生を送りました。

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重要文化財・旧高取邸

敷地は2300坪、建物は400坪ありますが、この屋敷に97年まで高取家の人が生活していたというのには驚きました。

内部は撮影禁止ですが、杉戸の絵や欄間の装飾が実に美しいです。また能舞台に転用できる巨大な板の間があって圧倒されます。

照明のランプシェードはアールヌーヴォー調、ふすまの引手は七宝焼きなど、細かいところの装飾に手間をかけている印象です。

高取自身が教養人だったからか、屋敷も成金趣味というより、京都の禅寺のような品の良さを感じました。

 

大島邸と高取邸の間にあるのが河村美術館です。これは唐津出身で住友金属工業の重役だった河村龍夫氏(1893-1976)のコレクションを土日祝日だけ一般公開している美術館です。

日本画も西洋画も、明治から昭和にかけての日本人画家の作品に特化しており、特に九州が生んだ夭折の画家・青木繁の作品を20点所蔵し、常設展示しています。一見の価値があります。

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河村美術館


 

唐津は藩主が頻繁に変わったためか、他藩と違って大名家のカラーが希薄でしたが、街自体は城下町ならではの落ち着いた風情で、とても良い雰囲気でした。