巡回を兼ねて昨日まで、三泊四日で出かけていました。
以前から平戸を見たかったので、7月1日に一泊して回りました。
平戸は1550年にフランシスコ・ザビエルが来航した地。領主の松浦隆信から布教の許可を得て、翌年には教会が誕生し、多くの人々がカトリック信者となりました。
しかし、1587年の豊臣秀吉による伴天連追放令の後、平戸はキリシタン迫害の中心地となり、多くの信者が殉教しました。
明治のキリスト教解禁後、わが国ではパリ外国宣教会によるカトリック宣教が再開され、多くの隠れキリシタンがいた長崎県はその中心地となります。
平戸は特に、1881年から地区を管轄したマタラ神父(1856-1921)の活躍で多くの教会が設立されて今日に至っています。
そのようなわけで、カトリックの歴史的な聖堂のうち、主だったものを訪ねました。
まず、マタラ神父が設計した平戸で現存する最古の聖堂・宝亀教会(1898年築・長崎県有形文化財)。
次は紐差教会。現聖堂は「教会建築の父」と呼ばれた鉄川与助(1879-1976)の設計で1929年に建てられました。
田平教会は、やはり鉄川与助の設計で1918年に建立。国の重要文化財に指定されています。あまりにも優美な姿で、見ているとヨーロッパの村にでも来たような気分になります。
平戸市街の平戸ザビエル記念教会は1931年建立。長崎大司教区の平戸地区主管教会で、とても大きくて見栄えがします。聖堂の前には献堂40周年を記念して、1971年にフランシスコ・ザビエル像が建てられています。
さて、上述の松浦隆信は南蛮貿易の利権が目当てで、ポルトガル船の入港とカトリックの布教を許し、実際に巨万の富を築きました。しかし隆信自身はキリスト教になじまず、ポルトガル人を追放するに至ったため、彼らはキリシタン大名の大村純忠が開いた長崎に移ってしまい、松浦氏は南蛮貿易の利権を失いました。
隆信の後を継いだ鎮信は幕府の許しを得て、1609年にオランダ、1613年にイギリスとの貿易を開始し、両国の商館が建てられました。平戸は、ポルトガルの撤退で衰退した長崎に代わって、日本で唯一の対外貿易港の地位を取り戻したのです。
ちなみに鎮信は、徳川家康から「三浦按針」の名をもらった英国人ウィリアム・アダムスを平戸に招聘しています。アダムスは1620年に平戸で亡くなりましたが、幕府の鎖国強化にともない、イギリス商館は1623年に撤退しました。
現在は1639年に建てられたオランダ商館が2011年に復元され、当時の絵図や物品の博物館になっています。一見の価値があります。
ちなみに幕府は、1641年にオランダとの窓口を平戸から幕府領の長崎出島に移転することを決定。つまり、外国貿易の利権を幕府が平戸藩から奪い取ったわけです。そのため、この商館のオリジナルは建てられて2年で取り壊されてしまいました。
さて、平戸藩主の松浦氏は平安時代の嵯峨源氏・渡辺綱の子孫です。渡辺綱の曽孫の久が肥前松浦郡に定着し、地名の松浦を姓にしました。
以来、松浦一族は「松浦党」を名乗り、強力な水軍で知られました。壇ノ浦の合戦では平家に味方。元寇でも海上のゲリラ戦で元軍を苦しめました。
鎌倉時代以降は海賊の倭寇として恐れられ、また中国商人との密貿易で財を成しました。ちなみに前述の松浦隆信は、明の貿易商・鄭芝龍を平戸に招聘しましたが、芝龍と平戸の日本人女性の間に生まれたのが、台湾をオランダから解放した英雄・鄭成功です。
隆信の子の鎮信は秀吉にも家康にも重用され、以来平戸は幕末まで一貫して松浦領でした。明治以降は松浦伯爵家となっています。
松浦氏の居城・平戸城は鎮信が1599年に建てました。しかし、鎮信は大阪の陣の直前の1613年、徳川への忠誠を示すために城を焼き払ってしまいました。
現在の平戸城は昭和37年に建てられ、博物館になっています。
城が焼けた後は藩主の館が政庁となり、明治以降も松浦家の当主が住んでいました。現在の屋敷は1893年に建てられたもので、昭和30年に松浦家が平戸市に寄贈。現在は「松浦史料博物館」となっています。松浦家代々の宝物や藩主の私物などがたくさん展示されていて、実に見ごたえがあります。写真もすべて撮影可です。教会に興味がない人も(笑)、ここにはぜひ行くことをお勧めします。
平戸は私のように日本史も西洋建築も好きな人間には魅力満載の街でした。再訪できる機会があったら、今度は生月島などの隠れキリシタンの遺構や教会を見てきたいと思っています。