昨日は鹿児島ハリストス正教会で、蕩子の主日(Sunday of the Prodigal Son)聖体礼儀を執り行いました。
蕩子とは一般には「放蕩息子」と訳されます。この日はルカによる福音書15章の「放蕩息子のたとえ」が読まれることから、正教会では蕩子の主日と呼んでいるわけです。
父から財産を譲り受けた息子が、家を出て放蕩の限りを尽くして散財。さらに飢饉が起きて食べ物がなくなり、初めて自分自身を振り返ります。そして彼は父のもとに帰って「私は罪を犯しました。息子と呼ばれる資格はありません。私を雇人の一人にしてください」と言おうと決意します。しかし父は帰ってくる息子の姿を見つけると遠くから走り寄り、彼が謝罪の言葉を言う前に抱きしめ、帰郷を歓迎して宴を開きました。「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったから」(ルカ15:24)というのが理由です。
福音書には放蕩息子の兄のリアクションについても書かれていますが、このたとえが言いたいのは以上のことですので、思いっきり簡潔にまとめました。
このたとえ話は大変有名で、文学や芸術の題材に取り上げられてきました。また、それらを通して「親の愛は無限です」といった感動ストーリーに置き換え、「お父さんもお母さんも、あなたのことを陰で見守っていますよ。だから親孝行しましょうね」といった地上の親子関係の訓話の方向に持って行きがちです。
また、逆に反発として「親の財産を勝手に使ったのに、弁償もしなくて赦されるなんて甘すぎねえか」「真面目にやっている方が馬鹿を見るのはおかしい」といった意見も考えられます。ちなみにこの意見は、福音書の本文の中で放蕩息子の兄のセリフとして語られており、それに対して父から「私のものは全部お前のものだ」、つまり自分が貰うべきものは貰えることになっているではないかと言われています。つまり、イエスはそのような反対意見が出る可能性に対して、しっかり釘を刺しているわけです。
肝心なことは、この福音書の記事は地上の実話、あるいはそれをモデルにした「物語や読物」ではなく、イエスが分かりやすい事例を用いて説明している「神学」なのです。よって少なくともクリスチャンなら、ストーリーを表面的に読んで感動しているのではなく、このたとえ話を通してイエスが伝えようとしている教えをしっかり汲み取らなければなりません。
「放蕩息子のたとえ」が提示するテーマは「罪」「悔い改め」「神の赦し」という、キリスト教で重要な概念の定義です。
まず「罪」の概念です。
父(神)は息子(ある人間)に財産(その人が受け取るべき恵み)を与えていますが、その財産の使途については一切指示していません。また、父に従えとも出て行っていいとも言っていません。この息子はあくまでも「自分の意思」で家を出て行き、財産を使い果たしてしまったのです。
つまり、神は人間を創造するにあたって、人間に自由な意思を与えており、それに基づいて生きることを認めているということです。
しかし、自由な意思を与えられているということは、この世を創り、自分に生命を与えてくれる神に従うこと、つまり信仰を持つことも、神に背くこともその人の意思次第ということになります。
最初の人間アダムとエヴァも、神から「善悪を知る木からは決して食べてはならない。食べると死んでしまう」(創世2:17)と予告されていたにもかかわらず、自らの意思でそれに背いて食べてしまいました。このように、人間の側の基準で良いとか悪いとかいう以前に、自分の意思で神に従わないことをキリスト教では「罪」と定義するわけです。
またアダムとエヴァの罪によって、人間は死ぬ者となったと考えるのですが、それは罪に対する「神の罰」ではなく、上記の神の予告どおりの「結果」と理解します。
このように、人間は神から自由な意思を与えられて生きている以上、誰もが罪を犯す可能性が常にあり、また結果として人生のどこかの段階で罪を犯すのであって、「全ての人は生まれつき罪人である」とか「神はあらかじめ、正しい人と罪人とを分けて造っている」といった考え方は、少なくとも正教会ではしません。
ここを把握できれば、次のテーマの「悔い改め」は罪の逆パターンなので理解は容易です。
福音書の財産を使い果たした、つまり罪を犯した息子の場合は、いくつかの選択肢が考えられました。例えば泥棒や詐欺師のように、徹底的な犯罪者になること、努力を放棄して成り行き任せで生きること、生きること自体を放棄して自ら命を絶つこと、などです。
しかし息子は、父のもとに帰り、これまでの不始末を謝り、父と共に生きることを「自分の意思で選択」しました。
このように、自分の意思で神に背いたこと(罪)を反省し、自分の意思で神との関係を再び取り戻そうとすることを「悔い改め」と定義します。
最後に「神の赦し」です。
悔い改めている息子(人間)に対して、赦す赦さないを決めるのは父(神)の側です。
福音書では、息子が謝罪の言葉を発する前から父は走り寄って抱きしめています。また、何のつぐないも息子に要求していません。
つまり、神の側は常に人間が罪を悔い改め、自分のところに帰って来るのを無条件で待ち望んでいると読み取ることができます。
なぜなら、神が人間に与えた自由な意思に基づいて、神に立ち返ることを選択したのですから、神の側はそれ以上のつぐないを要求する必要がないからです。
ちなみに、たとえ話の中で父が「死んでいたのに生き返った」と言ったのは、既に書いたように罪の結果死ぬ者となった人間が、神のもとに帰る、つまり信仰によって罪の状態を脱し、復活と永遠の生命を獲得するというキリスト教の根本教義を言い表しています。
またこの無償の赦しは、神の「愛」に基づいているとも考えます。ヨハネによる福音書には、神の愛と赦しや救いの関係について、次のように明記されています。
「神はその独り子(キリスト)を与えたほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)
このように見てきますと、他人に対して「あなたは罪人です。神の罰を受けます」「罪深いあなたを私が正してあげます」「救われるためには○○の償いをしなさい」等、決めつけたような命令や恫喝をする人や宗教があったなら、たとえキリスト教を名乗っていても、極めて反聖書的・反キリスト的なカルトと言わざるを得ません。
私たちは見えざる神の愛のもと、一人ひとりが自由な意思を持って生きることを許されている。たとえどこかで罪という「失敗」を犯しても、自由な意思に基づいて自分を悔い改め、神に立ち返るならば、神は無条件で受け入れてくれる。だから、自分の人生を思い切って生きてみようよ…これが正教会の信仰に基づく人生観です。
このような人生観なら、自分の生き方も他人との人間関係も、ポジティブに捉えられるはずです。
私自身は東京教区から、人口の少ない地方に送られたので、今はなかなか多くの人とお話ができないのですが、少しでもイエスのメッセージをお伝えできたら幸いです。