九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

他人と自分を比較することの落とし穴

今年の正教会の復活祭は、西方教会カトリックプロテスタント)と1週間遅れの4月16日です。

その復活祭の約7週間前、2月26日の夕刻から、復活祭に向けての準備期間「大斎」(Great Lent)が始まります。他教派では四旬節や大斎節など、呼称は様々です。

さらに正教会では少しややこしいことに、その大斎を迎える前の準備期間があり、今がその最中ということになります。

今年は2月5日に「税吏とファリセイの主日」、12日に「蕩子の主日」の聖体礼儀を巡回して執り行ってきました。

これらの呼称は、それぞれの日曜日に朗読される福音書のテーマにちなむものです。つまり税吏とファリセイの主日では「徴税人とファリサイ人のたとえ」(ルカ18:9-14)、蕩子の主日では「放蕩息子のたとえ」(ルカ15:11-32)が朗読され、それぞれの福音書が提示している教えをもとにして、大斎に入る前に自分自身を振り返ってみましょう、ということです。

 


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この二つの主日の、それぞれのテーマの説き証しは以前に書いていますので添付しておきます。

 

frgregory.hatenablog.com

 

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あえてこの二つの福音の共通点を抽出するならば、「他人と自分を比較することの落とし穴」と言えるでしょう。

 

徴税人とファリサイ人のたとえでは、神殿で「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献じています」(ルカ18:12)、つまり律法に則った模範的な生活を貫いていることを誇るファリサイ人と、周囲から悪人だと蔑まれていて、自分も罪を自覚し「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(同18:13)と祈る徴税人が対比されます。そしてイエスはこのケースにおいて義とされた、つまり神に正しい者とされたのは徴税人の方であり、ファリサイ人ではないと説きました。

理由はファリサイ人は「わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」(同18:11)と言っているからです。

信仰が神と自分との関係に帰結するものである以上、自分自身が熱心な信仰生活を送っているという事実だけで十分であり、他人と自分を比較する必要はないはずです。しかし、このファリサイ人は自分を良く見せるため、あるいは優れた自分に満足したいために、やらなくてもいい「他人と自分との比較」をしていることで、かえって自分の価値を下げているのです。

イコン「税吏とファリセイ」

「放蕩息子のたとえ」は、二人の兄弟が父から財産を分けてもらったところ、次男はそれを放蕩で使い果たしてしまい、悔い改めて父のもとに帰る。父はそれを喜んで迎え、祝宴を開くという内容です。これを通して、「人間の罪とは」「悔い改めとは」「神の人間に対する無条件の愛」といったテーマが説かれています。

さらにこのたとえでは、追記事項として長男の反応が記されています。長男は、「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」(ルカ15:29-30)と言っています。要するに不公平だというクレームです。

日本人的な価値観では、おそらくこの長男の「支持者」は少なくないと思いますが、しかしそれなら「父親は財産を二人に分けてやった」(同15:12)という記述をどう考えますか、ということになります。

要するに、長男は自分がもらうべき取り分は既にしっかりもらっているのに、それには言及せず、また父が戻ってきた次男のために何をしようと父の側の意思であるにも関わらず、「放蕩な次男と比べたら自分の方が真面目なのだから、自分はもっともらって当然」と言っているわけです。

つまり、自分の人生は自分の人生、弟の人生は弟の人生なのだから、このケースでは素直に祝宴に着けば(たとえ内心は面白くないにしても)、自分もお相伴に与れるのに、自分と弟を比較するという余計なことのせいで自分が損しているのです。

 

福音書には他にも「空の鳥と野の花のたとえ」(マタイ6:25-34)など、他人と自分を比較することの弊害や無意味さを説く箇所がいくつもあります。

嫉妬、物欲、怨恨、虚栄心、傲慢または劣等感…数え上げればきりがないのですが、他人と自分を比較して、そういった落とし穴にはまってかえって苦しまないように、私自身も「今の自分の人生」を素直に受け止めて、前向きに物事を考えるように努めたいと思っています。