九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

「永遠の記憶」と「幾とせも」 永遠と永久はどこが違う?

正教会では永眠した人には「永遠の記憶」(Memory Eternal!)、存命の人には「幾とせも」(Many Years!)と、祈りの言葉が決まっています。

どちらも平たく要約すれば、神がその人をいつまでも変わることなく覚えてくださいますように、という意味になります。

しかし、どうせ同じ意味なら同じ言葉でもいいではないか、とはなりません。なぜならその人が永眠したのか存命なのかで、その人の人生に「永遠」と「永久」の概念の違いが生じるからです。

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永遠の記憶(パニヒダにて)

なぜこのようなことを書いているのかというと、長嶋茂雄の引退時の名言「わが巨人軍は永久に不滅です」は、自身で口述作成した原稿では「永遠に不滅」だったのに、本人が本番で(?)言い間違えてしまったという、面白い記事を読んだからです。

 

私は1963年生まれですが、読売巨人軍は65年から73年まで9年連続で日本シリーズを制覇しました。いわゆるV9です。

私が物心ついた時からプロ野球で巨人以外が優勝したのを見たことがなく、今と違ってテレビ番組の種類が少なかった半世紀前では、夕食時にやっている番組は巨人戦のナイター放送ばかりでした。

たとえて言うならV9の「幼児洗礼」を受けた世代であり、私を含めて同級生は男子も女子もみな巨人ファンでした。特に長嶋茂雄は当時の子どもたちにとって「神」のような存在だったのです。

長嶋は「アメリカの子どもは英語が上手いねえ」といったたぐいの、今から思うと「馬鹿じゃないの」と笑われてしまうような名言(迷言)には事欠かなかったのですが、「長嶋だから」と好意的に捉えられていました。

 

しかし74年10月12日、中日の優勝が決定して巨人のV10が消滅し、同日に長嶋が引退を表明するという、少年時代の私にとって巨人という「神殿の崩壊」に等しい大事件が起きました。

10月14日のリーグ最終戦が長嶋の引退試合となり、試合終了後に行われた引退セレモニーの挨拶で言ったのが、上記の名言です。もちろん私もテレビにかじりついて見ていました。


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ここで長嶋が「永久に不滅です」と言い間違えたことで、「野球の神様」の言葉としてそれこそ永久に残ってしまったわけです。

 

さて、それでは永遠と永久は何が違うのでしょうか。

永遠とは、精神的・観念的なことが、世代や時代を超えて、いつまでも変わることなく続くことです。

永久とは、主に事物が、いつまでも変わることなく続くことです。

つまり両者は「いつまでも変わることなく続くこと」という意味においては同義だが、それが精神的なものか物理的なものか、あるいはこの世を超えるのか、この世限りなのかによって、違いが生じるということになります。

 

たとえば「愛」だったら「永遠の愛」とは言いますが「永久の愛」とは言いません。愛は形のない精神的なものであり、来世まで存続しうるものだからです。

一方、長嶋の背番号「3」は巨人軍の「永久欠番」であって「永遠欠番」とは言いません。野球チームも背番号も、この世限りでしか意味を持たないものだからです。

その意味では、いくら自分が少年時代に神格化していたとはいえ、巨人軍は所詮この世の組織にしか過ぎないのですから、不滅なのは「永遠」ではなく、長嶋が言い間違えた「永久」の方が正しかったことになります。やはり長嶋は神様でしたね(笑)。

 

これを冒頭の祈りの言葉の違いにあてはめてみましょう。

キリスト教では神を「永久」でなく「永遠」の存在と考えるのはもちろんですが、その神を信じる私たちの生命も「永遠」と考えます。キリストは神自身が人となり、死の先にある復活を示した方だと信じることで、私たちの生命も現世だけの有限なものではなく、来世まで続く永続的なものになる、という教義です。

よって人の死を永眠といいますが、これは「永遠の眠り」ではなく「(この世での)永久の眠り」ということになります。来世での復活によって眠りから覚める時が来ると信じるのですから、目が覚めずに眠りっ放しでは矛盾してしまうからです。

 

その意味では永眠者への祈りの言葉「永遠の記憶」はそのものズバリ。神よ、来世における復活と永遠の生命に生きている永眠者を、どうかいつまでも変わらずに覚えていてください、と言っていることになります。

一方、生者への祈り「幾とせも」は、その人の「この世における人生」と、それに付随する「健康」「長寿」「安全」「平穏」「成長」「成功」といった事柄に、神がずっと関わってほしいと祈るものです。つまり長年(many years)だとしても、期間も内容もこの世を超える範囲までは含んでいません。

以上のことから、「永遠の記憶」と「幾とせも」とは、前者は神が永眠者を来世でも「永遠」に、後者は神が生者をこの世で「永久」に、覚えてくれるように祈る言葉という違いがあるのです。

 

長嶋氏に限らず、永遠と永久は意味の違いを考えずに使ってしまいがちな言葉ですが、私はそれこそ「永遠」の存在である神の言葉を扱う立場ですので、しっかり理解しておきたいと思っています。