九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

主の変容について

8月19日(ユリウス暦の8月6日)は、主の変容を記念する「主の顕栄祭」です。

主の変容とはマタイによる福音書17章、マルコによる福音書9章、ルカによる福音書9章に共通して書かれている出来事です。

 

エスは弟子たちのうちの三人、ペトロ、ヨハネ、ヤコフを伴ってエルサレム近郊のタボル山(聖書に山の名は書かれていないが正教会の伝承による)に登りました。イエスはそこに現れた預言者モーセおよびエリヤと「イエスエルサレムで遂げようとしておられる最期」(ルカ9:31)について語り合いながら、太陽のように白く光り輝く姿を弟子たちに示しました。ペトロは「自分でも何を言っているのか」(ルカ9:33)分からないくらい興奮し、イエスと二人の預言者のために庵を三つ建てて献じると申し出ました。すると彼らは光り輝く雲に覆われ、「これは私の愛する子。私の心に適う者。これに聞け」(マタイ17:5)という天からの声が聞こえて、弟子たちは恐れてひれ伏しました。イエスが「起きなさい。恐れることはない」と声をかけたので弟子たちが顔を上げると、そこには普段と同じイエスの姿しかありませんでした。

以上が、主の変容についての聖書の記述の要約です。

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山下りん「主の変容」(修善寺ハリストス正教会・筆者撮影)

 

この記述だけだと「何だか不思議な出来事が起きたが、だから何?」としか読み取れないのですが、聖書をその前段から読んでいくと意味が分かります。

そこにはイエスが将来、エルサレムで殺され、三日目に復活すると弟子たちに告白したと書いてあります。それを聞いたペトロは妄言だとしてイエスを諫めるのですが、イエスはペトロを「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:23)と叱責し、さらに弟子たちに「私について来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい」(マタイ16:24)と言いました。

 

このことから分かるのは、ペトロら弟子たちが期待していたのは、自分たちの師であるイエスが「この世の王」になることであり、それによって自分たちも立身出世を夢見ていたということです。だから山上でイエスの変容を見た時も、歴史上の「偉人」であるモーセとエリヤが現れ、さらにその二人にイエスが並び立っていたので、庵を三人にプレゼントしたいという発言に至りました。

しかし、イエスが変容を通して示したのは、まずモーセに代表される「律法」とエリヤに代表される「預言」、すなわち旧約聖書に記されたメシア(救世主)とは、ここにいるイエスだということ。二番目に、そのメシアが苦しみを受けて死に、復活することは妄言ではなく、旧約聖書の預言であること。三番目に、イエスはただの人間ではなく神(正確には神の子)であることを、光り輝く姿と天からの父の声で証しした、ということです。

 

 つまり、メシアはこの世の利益を実現するために来るのではなく、真の神が受難と復活によって天国を実現するために来ているという「正しい考え方」を、自らの姿を通して弟子たちに示した。だからそれを信じるならば、現世的に良い思いをすることに期待するのではなく「自分の十字架を背負って」、つまり苦しみがあったとしてもイエス・キリスト、つまり「イエスをキリスト(メシア)と信じて」ついて行くべきだ、というのが、この主の変容が伝えようとしているメッセージです。

 

さて、正教会の伝統では主の顕栄祭において、果物の初物を成聖します。(わが国では、ほとんどの教会では果物を店で買ってくるので初物ではないですが…)

ちなみに、ここで教会が想定している果物とは「ブドウ」です。よって祈祷文も「葡萄に降福する祝文」といいます。しかし祈祷文の中に、ブドウが採れない地では他の果物でも良く、その場合は「新果新蔬を献ぐる者のための祝文」という別の祈祷文を使うように、との指示が書いてあります。

「東地中海の宗教」であったキリスト教会にとって、夏の作物は何といってもブドウでした。しかしヨーロッパやロシアなど、より北方に宣教されていったことが反映されて、違う祈祷文のヴァージョンが作られたわけです。

この果物の成聖は直接的には主の変容と神学的な関係はないのですが、ブドウであろうと他の果物であろうと、作物の収穫期に行われる祭において大地の実りを神に感謝するための祈りであり、大変良い伝統だと思っています。

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果物の成聖(人吉ハリストス正教会