1月15日(ユリウス暦の1月2日)は正教会の聖人・サロフの聖セラフィム(1759-1833)の祭日(記念日)です。
セラフィムは19世紀のロシアを代表する聖人であり、現在もロシアで最も崇敬されている聖人の一人です。ちなみに仙台のセラフィム大主教の修道名は、この聖セラフィムにちなむものです。
セラフィムは19歳でサロフ修道院に入った後、30代から72歳で永眠するまでの約40年、森の中で一人で隠遁し、祈りと清貧のうちにストイックな修道生活を送った人物です。
彼から霊的助言を得るために、貴族から農民まであらゆる階層の人々が会いに来たと言われています。
しかし、重要なのは彼は決して聖書や神学を「お勉強」として机上で学んだ神学者ではなく、信仰生活を生涯にわたって実践した人物ということです。
ですから彼自身は、本もその他の文章も全く残していません。
セラフィムの言行は、モトフィロフという人物がセラフィムにインタビューした対話集のみに記されています。
その中で、モトフィロフが彼に信仰生活の目的とは何かと尋ねた時、彼は次のように答えたと記されています。
「信仰生活の目的は聖霊の獲得にあります。斎(ものいみ。定められた期間や曜日に動物性の食品を断つこと)、徹夜の祈り、祈祷、施し、キリストの名によるあらゆる善行は、聖霊を獲得するための手段でしかありません。」
マルティン・ルターは「人は行いでなく信仰によって義とされる」と言っていますが、セラフィムの言葉は全く似て非なるものです。なぜならセラフィムは善なる「行い」を否定していないからです。
しかし、それはあくまでも信仰の手段であって、目的は聖霊の獲得、つまり神から将来の復活と永遠の生命を受け取ることにあると言っているのです。
これは必ずしも、祈りやその他の善行はどうせ手段に過ぎないからいい加減でも良い、という意味ではありません。むしろセラフィムは他の誰よりも、おそらく当時のロシアで一番、祈りと斎と善行を実践したからこそ、そのように言うことができたと確信します。
彼が言いたかったのは、信仰の目的と手段を履き違えるなということです。
ある意味「信仰に熱心な人」ほど、この目的と手段の履き違えが起こる危険があります。つまり、「今日は12時間もお祈りした」「自分はガッチリ斎を守って、朝から水だけしか飲まなかった」などと、自分が「やったこと」に満足して、「こんな立派な信者の私ってすごい」という自己讃美に向かうことです。
しかも、自己満足で完結していればまだマシですが、そういう人は得てして他人に批判的になりがちです。
つまり「自分はこんなに熱心にお祈りして、欲望も我慢して、模範的な行いに努めているのに、何故あなたはそんなにいい加減なのか。あなたは罪深い人だ」という調子です。
そうやって他人を傷つけ、躓かせていたら信仰者として本末転倒です。極論すれば宗教が社会の害悪になってしまいます。
信仰の目的と手段を履き違えてはいけない…このセラフィムの言葉は私にとって大きな誡めであり、座右の銘の一つになっています。