長い間コロナ無風地帯だった人吉で、昨日と今日、コロナ感染者が判明しました。医療従事者ということで接触者も多く、市民は大変不安に感じています。
よって今日は人吉ハリストス正教会で、ベビー&ママサロンの開催日でしたが、感染リスクを考慮して休止。私たち夫婦で教会内のクリスマスの飾り付けをするに留めました。
さて、クリスマスに関連する誤解について今日取り上げるのは「キリストは馬小屋で生まれた」というものです。
西欧文化圏ではクリスマスにあたり、降誕の場面の飾りつけがよく行われます。これはイタリア発祥の習慣で、プレセビオと呼ばれるものですが、馬小屋(つまり建物)の中で、幼子イエスが飼い葉桶に寝かされている場面が一般的です。
このことから分かるように、マリヤがイエスを産んだ場所が「馬小屋」だという考えが広く定着しています。
しかし、聖書には「イエスが馬小屋で生まれた」とは一言も書いてありません。
イエスの誕生に関する聖書の記述は、新約聖書の『ルカによる福音書』の第2章にあります。そこには「彼ら(ヨセフとマリヤ)がベツレヘムにいるうちに、マリヤは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:6-7)と書いてあるだけで、生まれた場所の記述はないのです。
古代教会からの伝承では、イエスが生まれた場所は建物の馬小屋ではなく岩に開いた洞穴としており、正教会はそれを今も受け継いでいます。実際、ベツレヘムにある世界遺産の聖誕教会は、イエスが生まれたという洞穴の上に建てられています。
ではなぜ、洞穴なのでしょうか。
私たちは神学的な意味として「洞穴は復活と同じ場所。すなわち主の降誕は主の復活の予告」と理解しています。
十字架上で死んだイエスが葬られたのは土中でも建物の霊廟でもなく、「岩を掘って作った墓」(マルコ15:46)、すなわち洞穴だと聖書は記しています。そして「あなた方は十字架につけられたイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である」(マルコ16:6)と記されているように、その墓の中でイエスは復活しました。
このことを整理しますと、キリストの降誕とは永遠に生きる神がいつか死ぬ人間の肉体を取ってこの世に生まれてきたことであり、そのキリストが十字架上で死に、復活したと信じることを通して、私たち人間もいつか死んでも復活し、神と共に永遠の生命に生きることができる、という考えに集約されます。これはキリスト教の教義の根幹をなすものです。
つまり主の降誕と復活とは、「洞穴」という共通要素で繋がっているということもできるでしょう。
前述のプレセビオも、ミッション系幼稚園などで行われている聖劇も、馬小屋が舞台の方がビジュアル的に綺麗だとは思いますし、一般社会でやっていることを非難するつもりもありません。
しかし、クリスチャンの方たちは、降誕の場所が洞穴であったという伝承を通して「主の降誕の意味」を理解してくれたら、クリスマスもただのお遊びではなくて、意義のあるものになるのではないかと思っています。