九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

クリスマス考~いろいろな誤解に対して・その3

来週、12月19日は私の長男の30歳の誕生日です。

彼は私たち夫婦の第一子ですから、その日は私も妻も初めて「親」になって30年の記念日ということになります。

彼を含めて4人のわが子たちは東京、私たち夫婦だけが人吉と離れて生活していますし、それに加えてコロナのため行き来することも憚られるので、私たち夫婦にとっても大切な記念日であるにも関わらず何もしてやることができないのですが、義父が会ってお祝いしてくれると聞きました。

長女もお祝いに来るそうです。長男と長女は私が司祭になってから、生活のため私たちと別れて、しばらく兄妹で苦労して暮らしていましたから、きょうだいたちの中でも特に仲良しです。

長男が誕生日をお祝いしてもらえて、親として安心しました。

 

さて、クリスマスに関する誤解で今日取り上げるのは「クリスマスとはキリストの誕生日、あるいは誕生日祝い」というものです。

それなら誕生日はいつなのか、という以前に、クリスチャンが「キリストの『誕生日』をお祝いする」という発想を持つこと自体が、「キリストとは誰なのか分かっていない」という意味において間違っていると考えます。

しかし多くの日本人のようにノンクリスチャンだったら、失礼ながらどうせキリストを信じていないのですから、思想も信仰も自由である以上、どんなに「キリストの誕生日祝い」にかこつけて楽しく遊んでいようと、教会側が目くじらを立てることではないとも思っていますが…

 

エスの「誕生日」については日付どころか、時期さえも聖書(ルカによる福音書2章)には記されていません。また、マリヤがイエスを身ごもった時期も聖書(ルカによる福音書1章、マタイによる福音書1章)に記されていないので、逆算して推測することもできません。聖書によれば、生まれたイエスを発見したのは「野宿しながら、夜通し羊の番をしていた」(ルカ2:8)羊飼いたちですから、深夜に羊の放牧をしていたことを考えると、少なくとも真冬のクリスマスの時期は全く当てはまりません。

 

12月25日が降誕祭となったのは、イエスの時代から300年も後の4世紀です。

それまで神話の神々を崇拝していたローマ帝国キリスト教信仰を受け入れたことを契機に、それまでローマの太陽神の祭日だった12月25日を「主の降誕」を記念する日としたという説が有力です。

つまり、イエスが何月何日に生まれたかは問題ではなく、主の降誕、言い換えれば神が人間となって、私たちの前に来て下さった事実を受け入れ、それを記念することに意味があるというわけです。

 

そもそも「誕生日」というのは、この世に生きている個別の人間の記念日に過ぎません。生きている間は、誕生日をお祝いされれば本人も家族も嬉しいでしょうが、死んでしまったらただの日付以上の意味を持たなくなってしまいます。

百歩譲って、その人物が例えば「王様」「創業者」「独立の父」あるいは「教祖」など、特別な業績を成した「偉人」だから、それを崇め奉る意味で死後も誕生日を記念するという考えもあるかも知れません(普通は誕生日より命日を記念すると思いますが)。

いずれにせよ誕生日を祝うとは、その「人間」へのお祝いです。

しかしキリスト教会では、イエスを「キリスト教という宗教を始めた教祖様」とも、「非業の死を遂げた人物なので菅原道真のように後の人々が神格化した」ともとらえていません。そうではなくてイエスは、この世に人間として生まれてきたとはいえ、この世が創られる前から存在していた神だと信じています。

そして天地創造以前から存在しているのだから、神は人間と違って時計もカレンダーもない、時間に制約を受けない方だと考えます。

ですから、この世の特定の日付をイエスの「誕生日」だと決めつけることは、イエスを神から「人間」のレベルに引きずりおろすことになりかねません。

 

エスを神から人間のレベルに引きずりおろすとは、例えば「イエス様は私たちの罪のために十字架上で苦しんでくださったのだから、私たちもこの苦難を耐え忍びましょう」といった「模範的な人物像の強調」です。

そういう話は分かりやすいし、そもそもキリスト者がイエスに倣うこと自体は当然です。しかし、神がこの世に来た主たる目的が、人々に模範的な生き方を示すためだったとしたら、復活する必要は特になかったことになってしまいます。そうなると「今日私たちのために救い主がお生まれになりました!」なんて言ってるけど、その「救い」って何?、主が復活で示された私たちの復活と天国における永遠の生命じゃないの?と問わざるを得なくなります。

こういう方向に行き過ぎるとキリスト教キリスト教でなくなり、教会がただの「現代人生講座」になりかねません。

 

このように、クリスチャンが「クリスマスはキリストの誕生日祝い」と思うことは、ただのお遊びになるからけしからんということではなく、キリストの人間性の強調に繋がり、「キリストとは誰か」という本質を変質させかねないから良くないということです。

 

もちろん、クリスマスのお祝いをするなとは言っていません。クリスマスの意味を正しく理解してくれれば良いのです。

コロナ禍の問題はありますが、キリストの「誕生日」ではなく、キリストの「降誕」を祝って、降誕祭では信者さんと可能な限り楽しくお祝いしたいと思っています!

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山下りん画「主の降誕」