2001年7月21日に発生した「明石歩道橋事故」から、今日で20年を迎えました。
この事故は明石海岸での花火大会を見るために集まった人々がJR朝霞駅前の歩道橋に集中し、大規模な将棋倒しである「群衆雪崩」の発生によって起こされたものです。
この事故で11人の方が亡くなりましたが、うち9人は小学生以下の幼い子どもでした。
二人の大人の犠牲者のうちの一人、草替律子さん(当時71歳)は日本正教会の信徒でした。
草替さんは母親の手から引き離されて、群衆に踏みつぶされそうになった当時ゼロ歳の赤ちゃんを身を挺して助けたのですが、ご自身は人々の下敷きになって亡くなったのです。
事故当時、私は会社員でした。仕事中に立ち寄ったコンビニで、事故を報じた写真週刊誌をたまたま手に取ると、棺の中の草替さんの着物の裾をまくって悲しみを訴えているご主人の写真が目に飛び込んできました。遺体の足は人々に踏みつけられて内出血だらけになっていました。
事故死した人の遺体の写真がメディアに掲載されるというのは稀なことであり、大変ショッキングで今も記憶に残っています。
その葬儀の装飾が正教会のものだったので、「あれ、この方は信者さんだったのかな」と思いましたが、直接は知らない方だったので、その時は気に留めませんでした。
草替さんが赤ちゃんを助けて亡くなったことは、後で知りました。
この時に命を助けられた赤ちゃん、山下翔馬さんは今年20歳になりました。山下さんは毎年、7月21日に事故現場を訪れて手を合わせているそうです。
命と引き換えに救われた親子 「生かされた。ありがとう」 明石歩道橋事故20年(神戸新聞NEXT)#Yahooニュースhttps://t.co/I3yu4OSUhj
— 九州の正教会 日本ハリストス正教会九州管区 (@ocjkyushu) 2021年7月21日
「元気に生きています」助けられた男児、20歳に 亡き恩人に報告 | 毎日新聞 https://t.co/JT5xjH7wVf
— 九州の正教会 日本ハリストス正教会九州管区 (@ocjkyushu) 2021年7月21日
また、草替さんの出身教会である北海道・上武佐教会では、毎年草替さんのご命日にパニヒダが献じられています。
さて私は以前、「殉教者」という概念について投稿しています。
殉教者とは異教徒や権力者によって非業の死を遂げた人々ばかりを連想しがちですが、教会が讃えているのはその人の死ではなく、最後まで信仰を貫いたその人の生き方であると書きました。
草替さんは昔の聖人伝のような非業の死とは異なりますが、自分の命と引き換えに名も知らぬ子どもの命を助けたことを通して、究極のキリスト教信仰を証したと言えましょう。
教会が列聖していなくても、ご生涯としては立派な殉教者です。
イエスは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と言っています。
ではその愛の対象の「友」とは誰でしょう。イエスは「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている」(ルカ6:32-33)と言っています。
つまり、実際の利害関係がある人を愛するのは当たり前のことであって、自分とは関係ない相手、時には敵対する相手をも愛することに信仰上の意味があるのです。
従ってイエスがいう「友」、あるいは「隣人」とは、「自分以外のすべての人」が対象ということになります。
明石歩道橋事故を教訓に、社会としてイベントの安全対策や交通インフラのあり方を考えることはもちろん大切です。
しかし、同時にクリスチャンである私は、自分を捨てて子どもを救った知られざる殉教者・草替律子さんを敬い、その精神を少しでも見習っていきたいと思っています。