九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

コロナ禍の日本正教会

今日は米国のトランプ大統領が、新型コロナウイルスに感染していることが判明したとニュースで報じられていました。

コロナ禍が今もなお世界的な脅威であり、どんなに偉い人だろうと人間である以上、感染のリスクがあることを象徴する出来事です。

 

キリスト教会もまた礼拝での感染拡大、つまり教会のクラスター化は教派を問わず、世界的な問題になっています。

大事なことは、教会内の感染リスクを考慮し、「信者を守る」という視点で必要な対策を考える教会と、「信仰があればウイルスに感染しない」「感染対策など神への冒涜だ」などというロジックで対策をしない(というか禁じる)教会とが存在し、それが結果として教会内での感染拡大の違いに繋がっているということでしょう。

 

日本正教会教団は、2月に政府が感染防止のガイドラインを発表した当初から、各管轄司祭単位で教会の状況に応じた感染防止対策を取るよう指示をし、また各教会もそれに従って「聖堂内の換気」「聖堂内でのマスク着用」「入堂時の手の消毒」、さらに感染拡大した時は「祈祷の非公開」など、必要なことを行ってきました。

 

もちろん、このコロナ対策は地方教会だけでなく、本部(東京・ニコライ堂)でも厳しいスタンスで取り組んでいます。

 

その例として、9月13日にニコライ堂で行われた日本正教会自治50周年記念式典が挙げられます。

日本正教会終戦後、米ソ冷戦の影響で長くアメリカ人主教の管轄下にありましたが、1970年4月に本来の主管者であるモスクワ総主教の管下で日本人が自主的に運営する「自治教会」となりました。このイベントはそれから50年を迎えたことを記念するものです。

これはロシア正教会にとっても、アメリカからモスクワへの実質的な管轄権の返還を意味する重要な出来事です。そのため式典にはキリル・モスクワ総主教の出席が予定されていました。

しかし、教団は日露両国のコロナ感染の拡大を懸念して、総主教の来日辞退を(つまり呼んでおいて断るという恥をしのんで)お願いした結果、総主教は欠席。さらにソーシャルディスタンス確保のため、少人数に出席対象者を絞って式典が行われました。(私自身は教団内でそういった上の立場ではないので、呼ばれていません)

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日本正教会自治50周年記念式典 ダニイル府主教の挨拶

写真は式典でのダニイル府主教(日本正教会主座主教)の挨拶の写真ですが、写っている主教も司祭もみなマスクを着用しています。

 

このイベントの模様はネットを通じて広く海外にも紹介されましたが、海外の一部の正教会関係者からは「日本では主教までもが教会でマスクをするとはみっともない」「聖体(キリストの体と血であるところのパンと葡萄酒)でコロナに感染すると考えるとは、不敬虔も甚だしい」といった趣旨の批判が寄せられたと聞いています。

 

しかし、日本正教会の主教団は(団といっても二人だけですが)前述のとおり、「信者を守る」という視点で「教会からコロナ感染者を一人たりとも出さない」という不退転の決意で臨んでいるのであり、私も全く同感ですのでその方針を全面的に支持しています。

 

私たち正教徒は、聖体とは聖体礼儀において地上の物体であるパンと葡萄酒がキリストの体と血に変化したものであり、イエス自身の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6:54)という言葉のとおり、永遠の生命に至る「天の糧」であることを信じています。

しかしいかに聖体が天の糧であっても、感染症は地上の人間がウイルスを媒介されて感染するのであり、聖体を入れている器も司祭の手も「地上の物体」である以上、そこにウイルスが付着している可能性を否定できません。そもそもウイルス自体が「地上の被造物」です。

つまり聖体は信者にとって最も大切な永遠の命の糧であり、それが病気をもたらすことなどあり得ないことは分かっているけれども、教会においてコロナに感染するリスクが「絶対ない」と断言することも誰一人としてできないと考えます。

また、聖書に「隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10:27他)「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内に留まってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(ヨハネ第一4:12)等の記述があるように、私たちキリスト者に求められているのは「隣人愛」です。よって教会も社会の一員である以上、自分たちの幸せの追求だけでなく、社会に対する慮りと愛をも常に心がける必要があります。

以上のことから、「コロナ感染は神の罰だ」とか「教会でコロナがうつると考えるのは信仰が足りないからだ」などと言う人がいたとしたら、それはいささか短絡的な発言といえましょう。さらに教会での感染防止対策、つまり「教会の内部、さらには外への感染拡大を防ぐ取組み」に一生懸命取り組んでいる人々への批判や妨害までするのであれば、教会が社会の一員であるという前提から離れた、隣人愛に欠ける言動ということになり、それはもはや狂信的ですらないかと私自身は考えます。

 

そのようなわけで、私自身も妻以外の第三者がいる環境で祈祷する時は、マスクやフェイスシールドを着用し、いわゆる三密を避ける感染対策を徹底しています。

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マスク着用で聖体礼儀を執行

しかし、いずれにせよ一番良いことは、一日も早いコロナ感染拡大の収束です。

その日が早く訪れるよう、いつも祈り続けています。