昨日は教団教職者の定期健診を受診してから、都内の自宅へ。
末娘は人吉に来させ、他の三人の子どもたちはとっくの昔にそれぞれ独立しているので、今は家には86歳の母しか住んでいません。
母は全く健康で、運動能力も私よりあるので(笑)、今のところ心配はありません。自分も妻も、昔の同級生と話していると親の病気や介護の話題ばかりなので、その意味では親がいつまでも健康なことは、ありがたい恵みだと思っています。
昨日は天気が不安定でしたが、今日は晴れたので父の墓参に行くことにしました。
父が亡くなったのは2009年7月だったので、命日には数日早いですが十三回忌となります。新暦のお盆とも重なっています。
ちなみに妻はクリスチャンホームに生まれましたが、私の方の親族にクリスチャンは誰もいません。
墓は府中市の東郷寺という寺にあります。
戦時中、かつて東郷平八郎元帥の別荘があった土地に、戦死者を葬るために建立された寺です。
我が家では伯父(父の兄)が戦死したので、祖父がここに墓を求め、今に至っています。
山門はとても立派です。黒澤明が映画「羅生門」を撮影した時、ロケ地の一つにこの山門が選ばれたことで有名です。
門前の枝垂れ桜も有名です。大きな木が何本もあって、満開になったらさぞ壮観でしょう。しかし、桜の時期に亡くなった親族はいないので、私自身は残念ながら花を見たことはありません。
建物も重厚です。
新しい花を供えてお参り。
こういう仕事をしているくせに、自分の先祖の墓に詣でたのは6年前の父の七回忌が最後だったので、それは反省すべき点です。
さて、この寺は日蓮宗ですが、創建当時から戦死者とその子孫には宗教不問で墓を提供してきました。神仏を信じない母もクリスチャンの私たち夫婦も、将来ここに眠ることで考えは一致しています。
「クリスチャンの墓がお寺にあるなんてとんでもない」という人は結構多いのですが、そういう人は信者どころか司祭である私が寺の墓に入るなんて聞いたら、怒り狂っておかしくなってしまうかも知れませんね。
しかし、その人は信仰の意味を履き違えています。信仰は生きている本人の心が決めるのであって、墓の所在地で決まるのではないからです。
私は法要に参列しても、御題目(南無妙法蓮華経)は異教の祈りですから唱えませんし、お寺の側も檀家(正確には墓の所有者)の個人の内面の信仰までは介入しない。何の問題がありますか?
大事なことは相手が生者であれ死者であれ、また宗教が何であれ、相手を愛し、相手のために自分の信じる神に祈ることではないでしょうか?
そういう本質を忘れてはなりません。
まあ、親の墓参りを6年間もすっぽかした私が偉そうなことは言えないのですが(笑)