九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

サマリヤ婦の主日 キリストとの出会いが人生を変える

今日は人吉ハリストス正教会で「サマリヤ婦の主日」の聖体礼儀を執り行いました。

これはヨハネによる福音書第4章に記された、イエスサマリア人の女との出会いを記憶するものです。

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エスサマリアの女(ヨハネ4章)


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この福音書のテーマとしては「ユダヤ人から蔑まれていた異教徒のサマリア人も、キリストによって真の信仰に導かれた。つまり救いは全ての人に開かれている」「過去、五人の男性と夫婦関係にあり、今は六人目の男性と同棲しているような女でも、主は救いに導いている。つまり救いに与るのにその人の過去は関係ない」「地上の水は地上での命を繋ぐことはできるが、永遠に渇かない水、すなわち永遠の命は信仰を通してのみ得られる」といった要素が挙げられます。どれもキリスト教という宗教において、重要な教理です。

しかしイエスサマリアの女に関して、これらのことはクリスチャンでしたらご自分の教会の牧師先生や神父様から説教などで何度も聞いていることでしょう。

 

私はこのエピソードを、復活祭期(復活祭から40日間)全体に通じるテーマと位置付けます。それは「キリストとの出会いが人生を変える」ということです。

 

復活祭期には復活祭当日を除くと日曜日が5回あります。

まず「フォマ(トマ)の主日」(ヨハネ20章)。十字架上で死んだはずのイエスが復活して、弟子たちの前に現れます。イエス聖霊を通して彼らに機密(sacrament)を行う権能を与え、彼らは使徒として福音、すなわちキリストの復活を宣べ伝える新しい人生を歩みました。

次に「携香女の主日」(マルコ16章)。マグダラのマリヤら、イエスの女弟子たちはイエスの墓に行って、復活の第一発見者となりました。マグダラのマリヤは主の復活を弟子たちに知らせ、さらに女性ながら使徒と同じ役割(亜使徒)を果たす人生を送りました。

第三に「癱者の主日」(ヨハネ5章)。あらゆる病気を治す奇蹟が起きるというベトザダの池のほとりに、38年間病気で体が動かない病人がいました。病人は通りかかったイエスに池に入れてくれるよう頼みますが、イエスは彼を池に入れることなく治しました。つまり、救いとは池の水がどうこうではなく、真の信仰によってもたらされることを示したのです。元病人は「自分を癒したのはイエスだ」(ヨハネ5:15)と人々に告げ知らせました。

第四は本日の「サマリヤ婦の主日」(ヨハネ4章)。前述のように異教徒だった彼女はイエスと出会って、「この方がメシア(キリスト)かも知れません」(ヨハネ4:29)と気づきます。彼女が町の人々にイエスのことを告げ知らせた結果、「多くの人々がイエスの言葉を聞いて信じ」(ヨハネ4:41)ました。聖書には書かれていませんが、伝承によれば彼女は後にフォティニ(ギリシャ語で光)と名乗り、福音宣教に生涯をかけ、最後に殉教しています。

来週の第五は「瞽者の主日」(ヨハネ9章)。生まれつきの盲人がイエスに目を開けてもらったことから起きる騒動です。元盲人は「イエスに見えるようにしてもらった」と事実しか言っていないのに、「そんなことはあり得ない」とファリサイ人が躍起になって否定しようとします。ついに元盲人は社会から追放されてしまうのですが、その代わり真の信仰に目覚めて生きました。つまり、素直な心で神を受け入れる人と、固定観念や自分が優先したい価値観のせいで事実さえも受け入れない人とがいたとして、本当に盲人なのは後者の方だというオチです。

 

以上の聖書の登場人物は皆、キリストとの出会いでその後の人生が変わっているのですが、これは聖書という本の中の世界の話ではなく、洋の東西と時代とを問わず、私たちも人生のどこかで、何かのきっかけで、知ると知らずとを問わずキリストと出会っており、それで自分の人生が変わるかもしれないということです。

もちろん信仰もその他の価値観も、神が与えたその人の自由な意思に基づくものと考えますから、仮にキリストと出会っていながら信仰に至らない人がいても、それはその人の自由なのですが。

ちなみに私自身は全くキリスト教と無縁な家庭環境で育ちましたが、20代になってクリスチャン(正教徒ではありませんが)の女性、つまり今の妻と知り合って洗礼を受けたことと、新婚旅行の行き先に気まぐれでギリシャを加えたことで正教会を知ったことが、大きな人生の転機であったことは間違いありません。

会社を辞めて神父になったのは、はっきり言って付録のようなもので、それ以前のこととして、キリスト教信仰によって自分の価値観、自分の生き方がキリスト教的、正教会的なものに変わりました。それは結果として私の心に幸福感と安定感を持たせ、その後の人生で続々と見舞われた問題にもポジティブに向き合うことができて、今に至っているように感じています。

私はマグダラのマリヤやフォティニのような立派な人間ではありませんが、キリストと出会って変わった自分自身の生き方を通して、正教会が示すキリスト教信仰の「良さ」を証しできたら、と思っています。