九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

聖枝祭 「枝」とは何の木の枝?

今日は人吉ハリストス正教会で聖枝祭の聖体礼儀を執り行いました。聖枝祭とは復活祭の1週間前の日曜日で、イエスエルサレム入城を記念する祭日です。


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ヨハネによる福音書12章では、エルサレム市民がシュロの枝を持ってイエスを迎えたとあることから、聖枝祭の聖体礼儀で参祷者は木の枝を持つのが正教会の伝統です。

何の木の枝を使うか、関心があって以前調べてみたことがありますが、同じ正教会でも地域によって違いがあって面白く思いました。

中近東では聖書の記述どおりシュロの枝ですが(そもそも聖書の舞台は中近東)、ギリシャなどのバルカン地方ではオリーブなどの常緑樹の枝です。コーカサス地方ジョージアでは木ではなく草(名前は不明)のように見えました。寒冷地のロシア圏では、シュロとは似ても似つかない、ネコヤナギの枝と相場が決まっています。

実際、聖書にも市民がシュロの枝を持っていたと書いてあるのはヨハネ伝だけで、マタイ伝には「木の枝を切って道に敷いた」(マタイ21:8)、マルコ伝には「野原から葉のついた枝を切ってきて道に敷いた」(マルコ11:8)とあり、何の木の枝だったかは書いていないし、そもそも手に持っていたとも書いてありません。

教会の側も「ヨハネ伝にシュロと書いてあるから枝はシュロでなければ許されない」ではなく、キリスト教が様々な地域に宣教されていく過程において、その地域ごとの風土と気候にマッチした植物が選ばれ、伝統化していったのでしょう。正教会の「多様な文化の信仰による一致」という特性が良く表れていると思っています。

 

日本正教会はロシア経由で宣教された経緯から、ネコヤナギの枝を用いるのが伝統になっています。

北海道や東北ならともかく、関東以西はロシアとは違って温暖なので、聖枝祭の時期(おおむね4月の中旬から下旬)にネコヤナギを入手するのは困難ではあるのですが…

もちろんお金を使って業者から買えば、ネコヤナギだろうと何だろうといくらでも入手できるでしょうが、上記のようにこの木でなくてはならないという決まりはありません。私の個人的な考えとしては、無理に日本と気候の違うロシアの真似をする必要はないのであって、ネコヤナギが手に入らなくても八重桜やツツジなど、その時期に美しく咲いている花木の枝を切ってきて使うのが、日本の教会として最も相応しいと思っています。

 

今回の人吉教会の聖枝祭ではネコヤナギの枝、それも天然の枝を用いました。

人吉の隣の相良村を流れる川辺川は、一昨年の豪雨災害では大洪水を引き起こしましたが、本来は蛍の生息する穏やかな清流です。そのほとりにネコヤナギの木がたくさん自生していると聞きました。

そこで相良村在住の執事長に、川原に自生しているネコヤナギの枝を採集してくれないかお願いしたのです。

さすがに今の時期はネコヤナギの花は終わってしまうので、執事長はまだ寒い3月初旬に伐採し、保管しておいてくれました。

それを昨日、教会に運んでいただき、晩祷で成聖して今日の聖体礼儀で参祷者に配りました。

ついでに、ということで自宅のお屋敷のシュロの枝もくださいました。さすがにこちらは、葉の直径が50㎝くらいあって手に持つのは不可能なので、聖堂内に飾っておきましたが。

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献納されたネコヤナギとシュロの枝

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枝の成聖


「中近東風」のシュロと「ロシア風」のネコヤナギ。異文化的な二種類の枝が、日本の片田舎の教会で一つになりました。しかも業者から買ったのではなく、庭木と天然の違いがあるとはいえ、実際にこの地に生えている木から採ったものです。

上記の「多様な文化の信仰による一致」が、この枝たちに示されているような思いがしました。

多様な文化、多様なアイデンティティの存在を認めた上で、キリストが示した愛をもって一致していくことがキリスト教、とりわけ正教会の本義のはずなのですが…正教徒なのにそれに逆行する背教者たちのせいで、いまウクライナで戦争に苦しむ人々がいます。

この聖枝祭から来週の復活祭の前日まで、人類の罪を贖うために十字架に釘打たれたイエスを記憶する「受難週間」(Passion Week)となります。この一週間、戦争という巨悪のために苦しむ人の救いを願い続けたいと思っています。