本日、2月18日はミケランジェロ(1475-1564)とマルティン・ルター(1483-1546)の永眠日です。
二人の没年は違いますが、16世紀の西欧史の二人の巨人のいわゆる命日が同日ということに、何だか不思議な繋がりを感じています。
二人は当然、面識はないのですが、バチカンの聖ペトロ大聖堂が共通項になっていると私は考えます。
なお、わが国では「サンピエトロ寺院」という表記が一般的ですが、あの聖堂が記念している使徒ペトロの名を殊更にイタリア語で書く理由はないし、仏教でないのにキリスト教の聖堂を寺院と書くのには猛烈な違和感を持っています。よって私自身は、あの建物は日本語では「聖ペトロ大聖堂」と書かれるべきだと思っています。
ミケランジェロはフィレンツェ出身で、少年時代から天才的な彫刻家としてメディチ家の庇護を受けていました。
1496年、彼の才能が教皇庁の目に留まり、彼は21歳でローマに招聘されました。そして教皇庁の注文を受けて1500年に完成させた彫刻作品が、聖ペトロ大聖堂の入口の近くにある「ピエタ」像です。
その後、ミケランジェロはフィレンツェに戻り、有名な「ダビデ像」などを制作しますが、1505年に新教皇ユリウス二世によって再びローマに招聘されます。
ユリウス二世は聖ペトロ大聖堂の大改築に着工し、ミケランジェロにはシスティーナ礼拝堂の天井に十二使徒を描くよう命じました。
しかし、ミケランジェロはこれに対し、自らの発案で創世記の物語を描きました。天地創造、アダムとエヴァ、ノアの方舟と大洪水などです。アダムの罪と楽園からの追放から、様々な出来事と預言を経てキリストによる救いに繋がっていくことを示した作品です。
ミケランジェロはこの絵を1508年から12年まで4年をかけて描きましたが、それまで彫刻がメインだった彼の、絵画での最初の大作といえます。
この天井画の完成から30年近く後、1541年に教皇クレメンス七世はシスティーナ礼拝堂に新たな壁画を描くよう、ミケランジェロに命じました。
それが1547年に完成した「最後の審判」です。
中央のキリストをはじめ、登場人物が全裸で描かれていたことから物議をかもし、ミケランジェロの死後に腰布が描き加えられたといういわくつきの作品です。
ちなみに、1993年のシスティー礼拝堂の大修復でも、この腰布は削除されずにそのまま残っています。
さらにクレメンス七世は1546年、既に71歳になっていたミケランジェロに、中断していた聖ペトロ大聖堂改築の設計を命じました。ちなみに、この同じ年にマルティン・ルターが永眠しています。
ミケランジェロは建設済みの建物の3分の2を取り壊して全面的に設計をやり直し、無給で聖ペトロ大聖堂の建設に取り組みました。
バチカンから請け負った仕事ですし、既に述べたように実績も見える形でバチカンに示しているのに、大聖堂設計の報酬を受け取らなかったのは、自分の芸術の全てを捧げることが彼の信仰の示し方だったからかも知れません。
彼は1564年に大聖堂の完成を見ずに亡くなりましたが、その時点で基本的な部分は既に出来上がっていたそうです。
さて、ユリウス二世が聖ペトロ大聖堂の大改築に着手したことで、教皇庁としては多額の資金確保が迫られました。
ユリウス二世の後任のレオ十世の時、大聖堂建設のための献金を全免償とする宣言がなされました。
カトリック教会では神に罪の赦しを願うにあたって、司祭に罪を告白し(告解)、償いとして具体的な善行をすること(贖宥)が求められます。これを今日のカトリック教会では「ゆるしの秘跡」と呼んでいます。
そして、教皇庁が認めた巡礼などの特別な宗教行為をすれば、ゆるしの秘跡での個別の贖宥を全て免除するというのが全免償です。
これに基づいて、ドイツ・マクデブルク大司教のアルブレヒトが始めたのが贖宥状というものです。
これは、大聖堂建設のための教皇庁への献金に充当されるお札のようなもので、これを買えば大聖堂建設に協力したことになり、よって教皇公認の全免償が得られるというロジックです。
ちなみに「免罪符」という表現がよく使われますが、さすがに当時のカトリック教会が腐敗していたとはいえ、お札を買えばゆるしの秘跡なしで罪が赦されるとは言っていませんから、贖宥状を「免罪符」と訳すのは正しくありません。
アルブレヒトが贖宥状を積極的に販売したのは純粋な信仰心からではなく、自分がドイツの司教職の最高位であるマインツ大司教の地位を得るために、レオ10世に巨額の賄賂を渡したために借金がかさみ、それを返済する必要に迫られたためです。
ちなみにマインツ大司教職は単なる聖職者だけでなく、ドイツに7人いる選帝侯の一人、つまり世俗の王の地位でもありました。アルブレヒトはブランデンブルク選帝侯、後のプロイセン王家のホーエンツォレルン家の出身で、選帝侯の地位がどうしても欲しかったのです。
教会の責任者である司教が世俗の王の地位を求めるのも、そのために教皇が巨額の袖の下を要求するというのも異常としか言いようがありませんが、当時の西欧では王侯貴族の親族がカトリック教会の司教職に就くのがむしろ当たり前であり、よって聖と俗の癒着というか「聖の俗化」も当たり前だったのです。
これに疑問を持ったのが、当時アウグスティヌス会の修道司祭だったマルティン・ルターです。
彼は1517年10月31日の夜、ヴィッテンベルクの城教会の門に贖宥状販売を糾弾する「95ヶ条の論題」を貼りだしました。これが宗教改革の始まりです。
ここで問題提起された、神の赦しに贖宥、つまり償いは必要なのか、そもそも人が神に救われるかどうかは行いで決まるのか、というテーマについては、今日の本題とそれるし、正教会には正教会の視点があるので改めて書きたいと思います。
いずれにせよ、16世紀のバチカンを軸に、ミケランジェロとルターはそれぞれが自分の思うスタイルで信仰を示したのだと私は思っています。日本史であれ世界史であれ、歴史って本当に面白いですね!