今日から福岡と小倉に3泊4日で出張しますので、しばらく投稿はお休みです。いつものように福岡で日曜日の聖体礼儀を行うのに加え、小倉でも集会ができるように候補地の下見をして来ます。
ちなみに今日(ユリウス暦の11月21日)は、正教会の十二大祭の一つ「生神女進堂祭」です。私の管轄では5日の日曜日に福岡伝道所で、生神女進堂祭を振り替える予定です。
この祭は生神女(イエスの母)マリヤが3歳の時、両親のヨアキムとアンナのもとを離れ、エルサレムの神殿に捧げられて育ったことを記念するものです。
十二大祭ということは、降誕祭や聖五旬祭(ペンテコステ)と同列の重要度という扱いになります。
なぜそれだけ重要な出来事と考えるかというと、マリヤが神殿に入ったことは、彼女が将来神の子を胎内に身ごもり、彼女自身が「生ける神殿」となったことの預象であると理解するからです。
また、パウロは「私たちは生ける神の神殿なのです」(コリント後6:16)と言っています。
これは、マリヤが「目に見えない神を目に見える人間として」キリストをこの世に生んだ結果、キリストを信じる私たちクリスチャン自身も神と共にある「生ける神殿」になっているという意味です。
通常、正教会の聖堂はきらびやかに飾られており、実際私たちは聖堂をとても大切にします。しかし、それは神が聖堂という「物体」の中にいると思っているからではありません。そういう考えは「偶像崇拝」といい、キリスト教とは相容れません。
神が宿っているのは地上のどこかの建物ではなく、私たち信者一人ひとりの中なのであり、聖堂はその私たちが集まって祈る場所だから尊いと考えるのです。
ですからどんなに大きな聖堂を建て、高価な装飾を施しても、そこに人が来なければ「神のいない」空間になってしまいます。
福岡伝道所はとても狭いし、イコノスタスをはじめ、聖堂に備わっているべき備品もほとんどありません。しかし幸いなことに、九州に四つある教会のうち、参祷者数は最多です。
その意味で、福岡の拠点が「生ける神殿」としてますます発展していけるよう、宣教に努めていきたいと思っています。