6月3日(ユリウス暦の5月21日)は、正教会でコンスタンティヌス大帝(日本正教会の表記ではスラヴ語読みでコンスタンチン)と、母親のエレナ皇太后の記念日です。二人は使徒ではないが、使徒に匹敵する働きをした聖人に与えられる「亜使徒」という称号で呼ばれ、イコンには二人で並んでいる姿で描かれることが多いです。
わが国の高校で使われている世界史の教科書を見ると、コンスタンティヌスはローマ皇帝として初めてキリスト教を容認し、313年にミラノ勅令を発布したということしか書かれていません。
従って「コンスタンティヌス」とか「ミラノ勅令」といった試験に出そうな文言は記憶に残っていても、コンスタンティヌスがキリスト教を受け入れて具体的に何を行ったのか、その結果ローマ社会の何がどう変わったのか、残念ながらちゃんと教わった記憶がありません。高校生時代の自分が、授業を真面目に聞いていなかっただけかも知れませんが(笑)。
コンスタンティヌスについて考えるにあたってまず知っておくべき点は、ローマ皇帝とはわが国の天皇や中国の王朝と異なり、必ずしも「世襲の君主ではない」ということです。
ローマは長く、貴族たちの議会「元老院」(セナトゥス。英語のsenateの語源)を最高機関とする共和国でした。行政の長は元老院が任期1年の「執政官」(コンスル。英語のconsultantの語源)を毎年任命していました。
紀元前1世紀、卓越した軍人だったユリウス・カエサルが周辺地域を次々と征服し、ローマの領土を大幅に拡大。元老院に自らを終身の「独裁官」(ディクタートル。英語のdictatorの語源)に指名させ、独裁政治を始めました。
カエサルは反対派によって暗殺されましたが、甥のアウグストゥスが権力を継承。元老院に軍最高司令官を意味するインペラートル(英語のemperorの語源)に任命させました。このインペラートルがローマの国家元首としての「皇帝」です。
軍の最高司令官を最高位の行政官と見なすのは、わが国の「征夷大将軍」と似た発想なのが興味深いですが、いずれにせよ自動的に親の後を継いでバカ息子でもトップになれるとは限らず、その時点で最も権力を掌握している者が元老院の承認を得て帝位に就くという、事実上の「終身大統領制」というのがローマ帝政の特徴です。
さて293年に、当時のディオクレティアヌス帝が国土を四分割して四人の皇帝が治める「四頭支配」(テトラルキア)を始めました。もう少し正確に書くと、ローマ帝国を「西ローマ」と「東ローマ」の二つに分け、東西それぞれを「正帝」と「副帝」が分割するというシステムです。そのうちの「西の副帝」に就いたコンスタンティヌスはガリアとブリタニア(今日のフランスとイギリス)を支配しましたが、ディオクレティアヌスの退位後、他の3人の皇帝たちを戦で破り、ついに324年に帝国の単独統治を達成しました。
いわば徳川家康の天下統一のようなものです。
コンスタンティヌスがキリスト教を受け入れた理由は諸説あり、特にキリスト教徒だった母のエレナ皇太后の影響が大きかったのは確かですが、教会の聖人伝では政敵マクセンティウスとの決戦「ミルヴィウス橋の戦い」でのエピソードを取り上げています。
ちなみにマクセンティウスは「西の正帝」で、今日のイタリアやスペインにあたる地域の支配者であり、ミルヴィウス橋とはローマ市を流れるティベリス川にかかる橋の名です。
ローマに進軍中、コンスタンティヌスの陣の上空に大きな十字架とラバルム(XとPを組み合わせた紋章)が現れ、「これによって勝利するだろう」という声が聞こえました。コンスタンティヌスは自軍の盾にラバルムを描かせて決戦に臨んだところ、マクセンティウスを破り、ローマの都を陥落させて西ローマを征服しました。
ちなみにラバルムのXとPとは、ギリシャ文字のXPICTOC(キリスト)の最初の二文字であり、今日でもキリスト教のシンボルマークとなっています。
このエピソードから、コンスタンティヌスはキリスト教の神を「軍神」として受け入れたと考えられます。キリスト教の入信の動機としては、いかがなものかとは思いますが。
いずれにせよ、彼は新たに支配したイタリアの都市ミラノで勅令を発布。これまで歴代皇帝が認めて来なかった、それどころか迫害の対象にすらしたキリスト教の容認を初めて宣言しました。これによりキリスト教会の従来の立場が180度転換し、ローマの国家理念の柱としてのオフィシャルな道を歩むことができたのです。
つまり、高校の世界史の試験問題だけでなく(笑)、コンスタンティヌスとキリスト教の結びつきは、大帝国ローマの国是自体を変えてしまったという意味において歴史上の大事件だったのです。
長くなったので、続きは明日に。