九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。2019年から九州全域を担当しています。

ナイチンゲールの名言「犠牲なき献身こそ真の奉仕」

今日、5月12日は国際看護師の日(International Nurses Day)です。わが国では独自に「看護の日」と呼んでいます。

これは今日が、看護師を従来の召使の立場から医療専門職に高めたフローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)の誕生日であることに因むものです。

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フローレンス・ナイチンゲール

 東京にいる私の長女も看護師です。

彼女は野球が好きで、高校に入って野球部のマネージャーになりました。自分がスポーツ万能なのだから、女子でも選手としてプレーできる部に入れば良いのに、同学年でただ一人の女子マネとして三年間を務めたのです。

それで彼女は「自分のためではなく人のために」働くことに目覚めたらしく、看護師の道に進みました。

川崎市内の大病院の脳外科病棟に4年半勤めましたが、そこを辞めて今は都内の訪問看護センターで働いています。

前職も現職も、患者さんは「体の不自由なお年寄り」ということになり、それなりに大変なことは間違いないと思うのですが、本人は今の仕事に満足しているようです。

 

そのようなわけで、私も看護師は「白衣の天使」と呼ばれるように無償の使命感を持った人たちの崇高な仕事だとずっと思いこんでいたのですが、ナイチンゲールの言葉を調べていたらタイトルに掲げた「犠牲なき献身こそ真の奉仕」を知り、反省させられました。

彼女はさらに「構成員の奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である」とも言っています。

つまりナイチンゲールによれば、看護師はただの下働きではなくプロの専門職なのだから、プロとして処遇されるべきであって、働き手である彼らの無償の自己犠牲に期待するような医療や組織は駄目だと言っているのです。

 

私はキリスト教の宣教者ですから、自己犠牲を当然のものと思っています。なぜなら、キリストの十字架上の死自体が、人類の罪の赦しを天の父に願うために自らを生贄に捧げたという意味において、文字通りの「自己犠牲」であり、そのキリストに倣うことがキリスト者だからです。

 しかし、それは自分の生き方、自分のポリシーとして心の中に持つことであって、相手が「あなたは神に仕えてるんだからお祈りするのは当然でしょ。タダでいいよね」というのはちょっと違います。

もちろん自分から「○○の祈祷をしました。私に代金を〇万円ください」と請求することはあり得ません。しかし、祈祷を依頼されたら「教会への献金をお納めください」とお願いしますし、実際に私は教会(正確には教団)から報酬を得ています。

私はコスプレ趣味で神父の「真似事」をしているのではなく、それまでの仕事を捨てて修行し、教会法上正式に司祭に任じられているのですから、プロとして(神父は職業ではなく立場ですが)当然のことだと考えています。

つまり、どんな分野であれ、プロになるために然るべき勉強や経験を積んでいるのだから、クライアントや組織もそれを認めてちゃんと報いなければ、両者の関係は破綻するということです。

これはお金の問題以上に、信頼関係の問題です。

 

もう二か月半後には東京五輪が開催されるはずですが、組織委は医師200人と看護師500人を「ボランティア」として求めています。ナイチンゲールが生きていたら何と言うでしょうか…

 

 さて、ナイチンゲールは、このような言葉も遺しています。

 「人生で最も輝かしい時は、いわゆる栄光の時ではなく、落胆や絶望の中で人生への挑戦と未来への完遂の展望が湧き上がるのを感じた時だ。」

私も東京教区から人吉への思いがけない異動と、未曽有の大災害に遭いましたが、その分東京教区に留任したままでは絶対にない新たな挑戦や経験ができています。

今が私の人生の最も輝かしい時に違いないと、改めて思いました。