九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

最後の審判~天国がご褒美で地獄が罰なのではない

昨日は福岡伝道所で断肉の主日(Meat Fare Sunday)の聖体礼儀を行いました。


2021.03.07 断肉の主日 聖体礼儀

 

今年の大斎は3月14日(日)の夕刻から始まり、ほぼ全ての動物性食品を食べないことになりますが、鳥獣の肉は1週間前倒しで禁食となるので7日までに食べ尽くしましょう、という趣旨です。

この断肉の主日では、マタイによる福音書25章から最後の審判についてのイエスの言葉が読まれますので、「審判の主日」(Sunday of the Last Judgement)とも呼ばれます。

 

この最後の審判とは、神によってこの世が創られた(天地創造)、つまりこの世に始まりがある以上、いつか必ず終わり(終末)が来るのであり、その終末においてキリストが再び来られて(再臨)、全ての者の総括を行うということです。

キリストの再臨と最後の審判は、キリスト教の正統な(Orthodox)教義をまとめたニケア=コンスタンチノープル信経にも記載されており、キリスト教の基本的な教えの一つといえます。

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ミケランジェロ最後の審判

 

この最後の審判で、人は「天国か地獄か」のどちらかに行くと決定されるのですが、どうも私たち日本人は伝統的な宗教観のせいか、この意味を正しく理解することが苦手なようです。これはクリスチャンも例外ではありません。

その誤解の根本は、この世で善を行った人は「ご褒美」として天国(極楽浄土など表現はいろいろ)に行かれる、悪を行った人は「罰」として地獄に落ちるという考え方にあります。

宗教の側もそういう考え方を都合よく使って、「あなたのような悪人は地獄に落ちるから行いを改めなさい」と恫喝したり、「たくさん献金すれば天国に行けます」などと誘導したりすることがあります。そういう方向性は、宗教そのものへの人々の信用を損なってしまうと思うのですが。

これは人を「宗教は胡散臭い。神も仏も、天国も地獄も信じません」と考える方向に押しやることとなり、さらには「だから私は自分が好きなように生きます。他人は知ったことではありません」という自己中心的な人生観、利己的な社会構造に進展しかねません。

 

キリスト教東方正教会では、一言でいえば「全ての人間は天国が本来の居場所である」と考えます。

上記の福音書で、審判者は天国行きを決定した人々に「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(マタイ25:34)と言っています。

そして旧約聖書天地創造に関する記述を見ると「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世1:31)、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ」(創世2:15)とあります。

これが、人間は他の被造物と同様、神に「善いもの」として造られ、本来の居場所としての天国(創世記の表現ではエデンの園)が用意されていると考える根拠です。

 

 さて、次に「審判」と訳されている単語についてです。

新約聖書ギリシャ語で書かれた書物ですが、審判とか裁きに該当するギリシャ語の名詞はクリシス、動詞はクリノです。このクリノとは元来「分ける、分離する」と言う意味です。

スポーツに例えると分かりやすいのですが、野球ならフェアかファールか、テニスならインかアウトかは審判の好みで決めていません。誰にでも見えるラインが引いてあって、そこから出たか出ていないかで審判が「結果をどちらかに分けている」のです。

同様に「最後の審判」の意味も、審判者であるキリストの主観的な好み(?)ではなく、明確な判断ラインがあって「本来なら誰にでも用意されているはずの天国」にインかアウトかが分けられるという理解です。この「天国アウト」の判定を「地獄」と定義します。

聖書の本文にも「全ての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らを選り分け、羊を右に、山羊を左に置く」(マタイ25:32-33)とはっきり書いてあります。

 

では、この明確な判断ラインとは何でしょうか。

審判者は天国行きの人々に「お前たちは私(キリスト)が飢えていた時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、旅していた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」(マタイ25:35-36)と、評価対象となった具体的な行動内容を取り上げ、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(同25:40)と言っています。一方、アウトの人々には逆に「この最も小さな者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」(同25:45)と「不作為」を指摘しており、嘘や暴力といった具体的な悪行の有無には一切言及していません。

以上のことから、天国に入れるか入れないかの判断ラインは隣人、とりわけ弱者に対する無償の愛の有無だというのが、この福音記事の結論です。

 

苦しい修行や多額の献金が天国への条件ではないし、具体的な犯罪への罰が地獄なのでもない。自分と目に見えない神との関係を考えるにあたって、まずは神から造られた兄弟姉妹である他者への愛を考える。その前提があれば、他人への寛容さ、自分の謙虚さ、自分自身の行いの反省と悔い改め等々の事柄も付帯的についてくる。

その行きつく先が、天地創造の時から人間の居場所として用意されている天国だというわけです。

 

最後の審判なんていかめしい訳が誤解や反発を招くのですが、実はキリスト教はとてもシンプルなことを言っていると、皆様が理解してくださったら幸いです。