九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

税吏とファリセイの主日にあたって~聖書は昔話ではない

人吉の昨日朝の最低気温は4℃。日中の最高気温は22℃でした。

朝、教会に行く時は寒くてダウンを着込んでいたのに、聖体礼儀を終えて祭服を脱いだ時は暑くてシャツ一枚になりました。

 

さて、正教会では復活祭前の大斎(おおものいみ。Great Lent)を準備する期間に入っていますが、主日聖体礼儀では三週連続シリーズでイエスが語った「たとえ話」を読むことになっています。

そのたとえ話を通して、「罪と悔い改め」「謙遜」「無償の愛」「最後の審判」等々の、キリスト教の基本となる諸概念を再確認するわけです。学び直しの期間と言ってもいいかも知れません。

そういった基本への理解なしに、信仰生活でやみくもに形式だけを追求しても、これから紹介するファリサイ人と同じになってしまいますので、私はこの大斎準備期間は極めて重要だと考えています。

 

昨日はシリーズの第一回、ルカによる福音書18章の「徴税人とファリサイ人のたとえ」に学ぶ「税吏とファリセイの主日」でした。

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イコン「税吏とファリセイ」

神殿に来た二人の人物がいた。一人はファリセイ、もう一人は税吏であった。ファリセイは心の中で、自分がいかに律法の決まりを模範的に守っているかを誇り、律法を守らない人々、特にそこにいる税吏のような罪深い人とは違う立派な人間であることを神に感謝すると言った。一方、自分の罪深さを自覚している税吏は顔を上げることもできず、ただ胸を打ちながら「神よ、罪人の私を憐れんでください」と言うことしかできなかった。二人のうち義とされた(神が正しいと判定した)者は税吏の方であった。

これが福音書の記述内容です。

 

ここから読み取れることは、いくら行いが立派であってもそれが「自画自賛」「形式主義」「他人への侮蔑や差別」に繋がるなら、絶対的な上位者である神と、無力な人間に過ぎない自分との関係性を無視している点において正しくない。むしろ、過去の行いがいかに悪かったとしても、それを自覚して悔い改めよう、神に赦しを願おうと思う人の方が正しいということです。

 

ここで登場するファリセイ(ファリサイ人)とは、旧約聖書に書かれた律法の決まり事を字句どおりに守る人々のグループのことです。今日の宗教としてのユダヤ教も宗派ごとのスタンスの違いはあれ、基本的にこのファリサイ主義を踏襲しています。

つまり、ファリセイは聖書が書かれた時代の過去の人々ではなく、現在も存在しているわけです。

ちなみにファリサイ、ないしファリセイとは「分離する者」という意味です。つまり「律法を守らない他の人々と自分との間を線引きして分ける」という考え方が根底にあります。

一方、税吏(徴税人)とは、当時のローマ帝国が属州(支配地)から税金を徴収するために雇った現地人のことです。ユダヤ人から見れば異教の支配者の手先だから罪深い人、という解釈となり、説教でもその要素を強調しがちです。

しかし、税吏の実態は公僕というよりヤクザ者であり、不正な取り立てをして私腹を肥やすような人々だったことは聖書にも記されています。つまりローマ帝国はとっくの昔に滅んでいますが、税吏のようにヤクザな人たちは今でも社会にたくさんおり、その中には悔い改めようとしている人も存在しうるということです。

 

これらのことから、このたとえ話は「イエスの時代はこうだった」という歴史の授業のような昔話、つまり「終わった話」で語っても無意味です。むしろ現代に生きる私たちにも当てはまるものであって、それを踏まえて自分はどうあるべきか、というメッセージが伝わらなければ意味がありません。

このたとえ話の税吏は信仰心があったから悔い改めることができたわけですが、価値観の多様化している現代社会において誰もが税吏のような謙遜と信仰心を持ち合わせることができるとは思いません。そうだったら、誰も宣教の苦労なんかしません(笑)。

 

しかし、ユダヤ人であろうとなかろうと、人は誰でもファリセイになってしまう危険があります。つまり自分を正しいと確信し、それと合わない他人をいじめたり排除したりしようとする、あるいは逆に支配したり苦情を言ったりする傾向です。

その根底にあるのは「主観的な価値観の絶対視」です。

差別やいじめ、各種ハラスメントといった社会問題から、クレーマー、モンスターペアレント、自粛警察などの個別事案まで、全てこれが関わっていると私は考えています。

当然ながら「主観的」とは人によって違いますから、各人がそれを絶対視し続けたらお互いに分かりあうことが不可能になり、人間関係における対立も争いもエスカレートすることはあっても、収まることはないことになってしまいます。

 

よって、現代社会に生きる私たちがこの福音書から学ぶべきことは、模範生である税吏よりむしろファリセイを反面教師として、「自分が正しいと思うこの価値観は、本当に正しいのか」と常に自ら検証していくことといえます。

その結果、初めて自分と異なるさまざまな価値観、つまり「多様性」を容認することが可能になるでしょう。

これこそが、多様な価値観の存在する現代社会に対して、この福音が呼びかけているメッセージと考えます。

 


2021.02.21 税吏とファリセイの主日 聖体礼儀