新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
元日の今朝は晴天との予報だったので、初日の出を見に行きました。
司祭館のすぐ近くに小高い丘があり、頂上が村山公園という公園になっていて、人吉市内が見渡せる展望台があります。
昨年の初日の出は人吉ハリストス正教会の近くの球磨川の岸辺で見たのですが、川原より丘の上の方が良く見えるだろうと思い、7時に起きて妻と行ってみました。
九州の日の出の時刻は東京より30分ほど遅く、今日の日の出も7時18分なので、そのようにのんびり出かけても初日の出には楽勝で間に合うのです。
7時20分過ぎに村山公園の展望台に着くと、既に20台以上の車が!
これまで私が知らなかっただけで、どうやらここは人吉の初日の出の名所だったようです…
公園の大して広くない展望台にも30人近い人々がいました。
しかし、写真でも分かるように辺りは一面の濃霧に覆われており、既に日の出時刻は過ぎているのに全く太陽は見えません。
球磨地方、特に人吉市は晩秋から冬にかけて濃霧で有名です。
これは盆地で昼と夜の寒暖差が極端なため、放射冷却で起きる現象です。
皮肉なことに放射冷却は、晴天の時に起きます。つまり、曇りや雨の日に霧は発生しません。
おそらく雲一つない空に昇る朝日が白々と輝いているはずにも関わらず、地上にいる私たちには全くそれが見えません。
いま人吉では毎朝氷点下ですが、この時もマイナス2℃。
寒いのに加えて全く日の出が見えなくて、展望台にいた人も一人減り二人減り、ついに7時45分頃には公園に誰もいなくなってしまいました。
私たち夫婦も諦めて、人吉教会に向かいました。
教会では元日の祈祷である「新年感謝祈祷」(Thanksgiving Service of New Year)を執り行いました。
新しい年を迎えられたことを神に感謝し、この新しい年にも神が私たちに恵みを与えてくれるよう祈る内容です。
もちろん、ウクライナで苦しむ人々の救いと平和の実現も追加して祈っています。
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人吉に来て4回目のお正月ですが、元日の祈祷に信徒が来たことはただの一度もありません。
しかし、4教会を兼務している私が新年の祈りを人吉でしなければならない決まりはないし、信仰は自由ですから、信者が教会に来なくてはならない義務もないのでお互い様です。
ただ言えるのは、信者が100人来ようとゼロだろうと、私は司祭ですから祈ることは変わりません。来年は人吉以外のどこで新年を迎えるか、考えることにします。
祈祷を終えて司祭館に戻ると、ようやく霧が少なくなって太陽が空にぼんやりと見えました。
妻の手作りのおせち料理で、二人で新年最初の食事をしました。(娘は起きて来ませんでした)
熊本では新年に郷土料理の「からし蓮根」を食べる習慣があるそうなので、一切れ入っています。さすがに手作りではなく、買ったものですが。
また、熊本のお屠蘇は「赤酒」という、みりんに似た熊本特産の酒を用います。お屠蘇用の洒落た酒器は我が家にはないので、鹿児島の焼酎用の酒器「黒じょか」に入れました。肥後国と薩摩国のコラボです。
ちなみに人吉球磨地方では県北の熊本地方と異なり、おせち料理には真っ赤に染めた「酢だこ」(年末のスーパーで山積みになって売られています)、飲み物は赤酒でなく「球磨焼酎」が必須なのですが、さすがに朝から焼酎は厳しいものがあるので夕食に回しました。
同じ九州どころか、同じ県内でも地域文化や習慣が様々だというのが、これまで地方での生活をほとんど経験したことがなかった私には実に面白く感じられます。
さて、話を教会の新年の祈りに戻します。
朗読される福音書はルカ4章16~22節。イエスが会堂で、旧約聖書のイザヤ書61章を朗読して、「この聖書の言葉は今日実現した」と言った箇所です。
つまり、イザヤが預言した救世主の到来はイエス自身、すなわち神が人となってこの世に来たことによって実現したという意味です。
イザヤ書の該当箇所を全文引用すると次のようになります。
主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み
捕らわれた人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。
主が恵みをお与えになる年(を告知させるために)。
(イザヤ61:1-2、新共同訳)
ちなみに上記で「主が恵みをお与えになる年」と訳されている箇所は、日本正教会訳では「主の禧年(よろこばしき年)」となっています。
わが国では伝統的にお正月、特に元日が特別な日と位置付けられ、宗教とは関係なしに誰もが「今年も良い年となりますように」などと普通に言っているのですが、では「良い年」とは具体的に何なのでしょうか。
キリスト教ではこの聖句が示すように、「この世の全ての人間をとらえて離さない『死』とそこから派生する『生きることへの絶望』からの、キリストによる解放」と明確に位置付けています。
キリストが来られたのは2千年前ですから、とっくの昔に良い年は来ているのですが、罪深い人間の側がいつも悪い年に変えてしまっていると言えるでしょう。
死の恐怖も絶望も、世界中の誰にでも共通する問題ではありますが、ウクライナではまさにリアルで「打ち砕かれた心の人」「捕らわれた人」「つながれている人」が何万人もいることもまた、世界中の人々は知っているはずです。
この2023年、神が彼らを苦難から救い、解放してくださるよう私は祈ります。
ちなみに上記で引用したイザヤ書の聖句の続きは「わたしたちの神が報復される日を告知して」(イザヤ61:2)です。
政治指導者だけでなく、宗教者でさえも、あの侵略戦争が正しいものであるかのように言って憚らない人がいます。しかしそのように「人の心を打ち砕き」「人を捕らえ」「人をつなぐ」者には何が待っているかもイザヤは預言しているのです。
信仰も思想も自由ですから、神を信じようと信じまいと、あるいは神をどのようにねじ曲げようとその人の勝手ですが、それで自分は将来良い方に報いられるのか悪い方に報いられるのかと考えたら、良い方がいいに決まっています。
そのために求められるのは宗教や思想以前に、「良識」ではないでしょうか。
世界平和の実現の前提として、良識が優先される世界の実現を祈るばかりです。