九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

お世話になった方のお見送り

9月8日(木)に英国のエリザベス女王薨去されたとのニュースが世界を駆け巡りました。

薨去のつい2日前の9月6日には、新たに選任されたトラス首相を任命する姿、つまり公務に就いている姿が報じられていました。96歳とはいえ、とても死期の近づいた人には見えません。

まさにわが国でいうところの大往生でしょう。

 

英国王室はロマノフ家と縁が深く、また女王の夫君・故フィリップ殿下はギリシャの王子でしたので、正教会とも接点があります。

そのあたりのことは以前書いているのですが、エリザベス女王薨去にあたって、いつかまた記したいと思っています。

ちなみに私の妻の洗礼名も英語表記ではElizabethですが、さすがに全く関係ない話ですね…

frgregory.hatenablog.com

 

さて、エリザベス女王とは全く関係なく、一昨日から昨日まで、前任地の横浜ハリストス正教会で行われた通夜と葬儀に出席していました。

8月31日に横浜教会のキリル長輔祭(仮名)が永眠したのです。

横浜ハリストス正教会

 

キリル長輔祭は大手製鉄会社のN社に勤めながら、昭和20年代からニコライ堂で副輔祭、さらに輔祭として奉仕していました。

日本正教会は戦後、GHQの命令で米国人の主教の管下に置かれ、1972年のウラジミル府主教の帰米まで27年間も「戦後体制」にありました。キリル師はまさにニコライ堂戦後史の生き証人です。

 

キリル師はニコライ堂で20年以上、鐘つきをして来られ、それが彼の最大の思い出だったようです。

1973年に所属がニコライ堂から横浜教会に移り、鐘つきを当時神学生だったイオアン長輔祭(仮名・故人)に引き継ぎましたが、それが当時の週刊誌に写真入りで掲載されたことがあります。

ニコライ堂の鐘楼に上る若き日のキリル輔祭(1973年)

私は95年、横浜教会で信徒になりましたが、当時会社を定年退職したばかりのキリル師から堂役の所作についてしっかりと教えてもらいました。

 

その後、私は会社を辞めて神学校に入り、図らずも2009年に横浜教会の管轄司祭になりましたが、キリル師は80代になってもなお、輔祭として私を助けてくださいました。

しかし、目の病気が進行してほとんど見えなくなり、輔祭職を続けられなくなって2013年に休職(聖職者を引退)しました。

キリル長輔祭が立った最後の聖体礼儀(2013年10月)

私が2019年に九州への異動を告げられた時、出発の前にとにかくキリル師夫妻に会いに行きたいと思い、私たち夫婦で訪ねました。キリル師は聖職を辞めた後、急速に認知症が進んで高齢者施設に入っており、私たちのこともよく分からなくなっていましたが、彼にお会いできたことで心置きなく九州に旅立つことができました。

それが生前のご夫妻に会った最後の機会となりました。

 

そのようなことで、キリル長輔祭には20年以上もお世話になったのですが、ご本人は至って明朗快活で腰が低く、誰からも愛されるキャラクターでした。

彼はサラリーマンとして定年まで勤めあげ、ご家族を養い、かつ日曜日は休まず60年も教会に奉仕されたのです。そのような立派な経歴を重ねている人はえてして、下の世代の人々に対して偉そうにふるまうものですが、キリル師には一切そのようなことがありませんでした。

キリル師の話す見事な(?)江戸弁は、まるで落語の登場人物のようでした。「ひ」を「し」としか発音できず、横浜教会の聖堂の名称「生神女庇護聖堂」をいつも「生神女シゴ聖堂」と言うので、それで皆が大笑いさせられたのは良い思い出です。

威張らず、見栄を張らず、面倒見がよく、そして何よりも明るい…もしかしたら、イエス自身がこのような人物だったのではないかとさえ思いました。

私自身はなかなかキリル師の域に達することができません。

 

エリザベス女王は昨年、フィリップ殿下が薨去された後、急に弱られたそうで、結果として後を追われました。キリル師の奥様もつい先月の8月2日に亡くなり、その同じ月にキリル師は後を追うように永眠されたのです。

教会にも家族にも、最後まで愛を貫いたキリル長輔祭を、これからも模範にしていきたいと思っています。

キリル長輔祭の葬儀

 

福岡に巡回 教会建設候補地探し

先週末は福岡に巡回しました。

台風が接近していることに加え、一部の信徒からコロナに感染したという連絡もあったので、聖体礼儀をやっても参祷者があるかどうか不安でしたが、15人も参祷者があり、8畳ほどの伝道所が一杯になりました。ありがたいことです。


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台風も九州では月曜の夜から今日の未明にかけて暴風雨になりましたが、東シナ海の沖合の方を進んでいたせいか、大きな被害はなくて良かったです。

 

さて、今の伝道所は仮設の集会所であり、手狭な現状なので、福岡に新たに教会を造るという構想については既に書きました。

今回の福岡巡回にあたっては、現地で2泊し、ネットで調べた候補地を車で下見して回りました。

教会を造るといっても、それ以前に福岡に住んで開拓しなくてはなりません。よって、ただの更地ではなく、実際に住宅が建っていて、なおかつ将来聖堂を建てられるだけの敷地の余裕がある物件が必要です。

 

良さそうな物件は交通が不便だったりして、どうにも帯に短くたすきに長しです。

ここに教会が建てられそうだが交通の便が…

まあ、誰かからいつまでに建てろと命令されているわけではないので、自分の仕事としてじっくりとやっていきます。

水害から2年 昨日と今日

いま住んでいる人吉の司祭館の庭木が伸びすぎて、近所から苦情になってしまいましたので、今日はシルバー人材センターの方たちに剪定作業をしてもらいました。
しばらく手を加えなくても良いように、思い切り短くしてもらったので、日当たりも良くなって気分爽快です。

植木の剪定の作業前(上)と作業後(下)

前回やってもらったのは2年前の6月。着任したのはその前年の秋だったので、枝の葉は枯れかけていて気にならなかったのですが、年が明けて春から初夏になると、あまりにも庭木の荒れ具合が気になり、作業を発注しました。

それから1か月も経たないうちに人吉は大水害に襲われました。

作業前の森のように伸びた木々を見ていると、あの災害からいつの間にか年月が過ぎてしまったことに気づかされました。

 

さて、昨日は市中心部の高野寺にピアノ演奏を聴きに行きました。

 

高野寺の向かいの青井阿蘇神社は大水害の時、国宝の社殿が水没して大変な被害を受けました。

この辺りは被害が最も酷い地区で、神社の前の蓮池にも道路から車が何台も流れ込んで見るも無残な状態でした。

しかし、今は池の蓮も生き返り、破損した文化財の禊橋(みそぎばし)の修復もようやく始まって、復興に向けて少しずつ進んでいるようです。

青井阿蘇神社の前の池

高野寺も4m以上水没したそうで、本堂以外の庫裏などの建物は全て取り壊されてしまい、プレハブの仮設寺務所などがある以外、境内は閑散としています。

高野寺の境内

このお寺では住職の奥様がピアノ教室を開いています。

住職によれば水害前、グランドピアノ2台、アップライトピアノ2台、電子ピアノ1台があったそうですが、全て被災しました。

開演の挨拶の時、大切にしていたピアノが瓦礫として重機で取り出された時の思い出を語る住職の声は、涙で震えていました。

その後、支援者からグランドピアノが寄贈され、ピアノ教室を再開できたそうです。

 

今回は人吉市のタウン誌「どぅぎゃん」(私も定期購読しています)の主催で、無料のミニコンサートが開かれたものです。

来聴したのは大人だけでなく、ここでピアノを習っている子どもたちが何人も来ました。

人吉教会の執事長の幼いお孫さん3人も来ていて驚きましたが、ここの生徒だとのこと。相良村からわざわざ通って来るとは、高野寺のピアノ教室はなかなか評判が良いようです。

 

演奏者は人吉生まれで、現在ポーランドで活躍しているピアニストの有島京さんです。

ショパンの小品を何曲か、披露してくれました。

演奏はピアノが置いてある仮設集会所で行われ、ピアノ教室の生徒以外のわれわれ聴衆は外で聴くという趣向です。

ピアノ教室が行われている境内の仮設集会所

演奏者の有島京さん

有島さんは一昨年冬、コロナでポーランドを離れて人吉に戻っていた時に、人吉労音主催のコンサートで演奏したのを聴きに行きました。その時も災害復興祈念だったように記憶しています。

 

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有島さんによれば、現在ポーランドにはウクライナの人々がたくさん避難してきており、支援のためのコンサートで頻繁に演奏しているとのこと。偶然とはいえ、いろいろな形、いろいろな場所で復興支援に携わられています。

 

青井阿蘇神社のように復興が見える形で進んできたところもあれば、高野寺のように水害から2,年経っても、まだ先が長いところもあります。

私も人吉であと何年生活することになるか分かりませんが、復興への歩みを見届けながら、できるお手伝いをしていきたいと思っています。

鹿児島に巡回 生神女就寝祭

今日は鹿児島ハリストス正教会に巡回しました。

 

本日、8月28日(ユリウス暦の8月15日)は正教会の十二大祭の一つである生神女就寝祭(Feast of the Dormition of Theotokos)。イエスの母マリヤが地上での生涯を終え、天における永遠の生命に移ったことを記念する祭です。

正教会では「夏の復活祭」とも呼ばれ、十二大祭の中でも特に大きく祝われる傾向にあります。降誕祭と同等か、場合によってはそれ以上かも知れません。

ちなみに、カトリック教会ではマリヤが天に上げられたという要素の方が重視され、祭の名も「聖母被昇天祭」といいます。もちろん、カトリック教会でも重要な祭と位置づけられています。

このカトリック教会と正教会との神学的な理解の違いについては、昨年投稿していますので、リンクを貼っておきます。

 

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鹿児島教会でも先週の人吉教会と同様、聖体礼儀の最後に「新果新疏成聖」を行いました。

新果新疏成聖

写真右上のザルに入った野菜は執事長が自分で栽培したもの。また手前の果物は教会の庭で採れたイチジクと、妻が今朝、人吉のスーパーで買ったブドウです。

イチジクとブドウは祈祷後に参祷者で分けて食べ、野菜はお土産にしました。

まさに大地の恵みに感謝です。

成聖したイチジクとブドウ

昼過ぎから信徒総会を開催しました。総会といっても、出席したのは私たち夫婦と教会の役員だけでしたので、実質的には役員会と変わらなかったのですが…

通常の議案である今年度の行事計画と決算・予算案の審議に加え、各教会の会計科目を教団と同じ基準に合わせることになったため、役員に会計事務のレクチャーを行いました。

前職時代も最終職務は地方支社の総務会計の責任者だったのですが、会社を辞めて神父になっても、皮肉なことに似たような仕事をしています(笑)。

 

今日で一連の信徒総会が終わりましたので、今後は福岡での教会設立に向けての準備を進めていくことになります。

良い方向に進むよう、生神女マリヤにも助けと導きを祈っているところです。

主の顕栄祭 収穫への感謝とキリスト教の伝統

今日は人吉ハリストス正教会で、主の顕栄祭を執り行いました。

主の顕栄祭とは、キリストの変容(マタイ17章)を記念する祭で、本来の祭日は8月19日(ユリウス暦の8月6日)です。

祭の位置づけとしては、復活祭に次いで重要な12の祭「十二大祭」の一つ。つまり降誕祭(いわゆるクリスマス)などと同格です。

 

正教会の伝統ではこの顕栄祭の時、新たに収穫された農作物を神に感謝して成聖(祝福)する習慣があります。これを「新果新蔬成聖」といいます。

キリスト教の発祥の地である東地中海地域では、8月に収穫される作物はブドウなので、祈祷文も「葡萄に降福する祝文」となっています。

しかし、キリスト教がより北方のブドウを産しない地域にも伝播された結果、ブドウ以外の農産物も成聖の対象となりました。実際、ロシアやウクライナではブドウではなくリンゴが新果新蔬成聖の主な対象です。よって、その場合に用いるための別の祈祷文「新果新疏を献ぐる者の為の祝文」も作られています。

つまり、成聖するのはブドウなのか、それ以外の作物なのかによって祈祷文も使い分けるということです。

 

大変興味深いのは、「収穫を神に感謝する」ことと「キリストの変容」とは、神学的には直接の関係はないということです。一応、私も信徒への説教の中では「作物が種や苗から『変容』し、私たちに実りとして与えられるのも神の恵みですから、感謝して頂きましょう」などと言うようにしていますが、「こじつけだ」と言われはしまいかヒヤヒヤしています(笑)。

要するに、「大地の恵み、新たな収穫を感謝して祝う」という発想自体がキリスト教以前の異教時代から、さらには日本のようにキリスト教自体が伝わって来なかった地域においても、普遍的に存在する「人類共通の当たり前な感情」であって、それがキリスト教における「夏祭り」の顕栄祭と融合している、というのが「新果新蔬成聖」の正しい説明です。

つまり、正教会のような伝統的なキリスト教思想においては、そういった「古くからの伝統文化」を非聖書的だと切り捨ててしまうのではなく、むしろ教会の文化として取り入れてきたということなのです。その意味では、「クリスマスツリー」なども同じです。

よく「キリスト教イスラム教のような一神教は思想が偏っていて戦争ばかりしているが、八百万の神を信じている日本人は寛容で平和的だ」などという人が少なくないのですが、そのように宗教の違いで人間に優劣をつけたり、挙句の果てに「だから日本人はスゴイ」と強弁する方が偏狭なのであって、寛容というなら多様な文化を受け入れて伝統を築いてきたキリスト教も同じでしょう。

 

人吉は農村地域ですが、教会の信徒に農家はいませんので、今日は妻がスーパーで買ったブドウを成聖し、プレゼントとして参祷者に配りました。

私も妻も生産者ではないですが、顕栄祭にあたって大地の恵みの「お裾分け」ができた一日でした。

ブドウの成聖

 

元特攻隊員の話

今日は球磨川のほとりで、人吉花火大会が開かれました。

2020年は大水害で中止になり、昨年もコロナで中止になってしまいました。私たち夫婦が人吉に来たのは2019年秋だったので、人吉の花火を見るのは今回初めてです。

川沿いは見物客で混雑しているだろうと思い、少し高台になっている人吉教会の敷地から見物しました。

今日は午後から19時半の花火開始直前まで、断続的に雨が結構降っていたのですが、花火が始まったら止み、花火を堪能することができました。

人吉花火大会

 

さて、8月15日になるといつも思い出すのが、前任教会時代、信徒のKさんを廻家祈祷(家庭訪問)で訪ねた時に、私に語ってくれた話です。

Kさんは大正15年、人吉生まれの「特攻隊の生き残り」です。

ちなみにKさんの親戚の多くは人吉に住んでおり、人吉教会の信徒です。そのため、私が人吉に転勤が決まった時、Kさんはとても喜んでくれました。

 

ちょうどKさんが小学校に入った頃、満州事変が勃発。小学生から中学生にかけて、「正真正銘の軍国少年」(本人談)として育ったKさんの夢は、「軍人、それも戦闘機のパイロットになって活躍すること」でした。

現代の航空自衛隊もそうですが、旧陸海軍でも航空隊、それも戦闘機の操縦士は最も優秀な人でないと配属されません。

そこでK少年は常に勉強もスポーツも一番を目指して頑張りました。それは全て「憧れの戦闘機乗り」になるためです。

 

昭和16年12月の真珠湾攻撃で、海軍航空隊が挙げた目覚ましい戦果は否応もなく、旧制中学生のK青年の心を掻き立てました。

とりわけ、昭和15年に運用が開始された世界最新鋭の零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦は最高の憧れの対象でした。

そこで、開戦翌年の昭和17年、そのゼロ戦パイロットになるため、難関を突破して海軍航空予科練習生、いわゆる予科練に入隊しました。

 

予科練時代の昭和19年に特攻が始まり、予科練の卒業生も神風特別攻撃隊、いわゆるカミカゼ特攻隊で出撃するようになりました。K青年の夢は「特攻隊員として憧れのゼロ戦に乗り、敵艦に突入してお国のために華々しく戦死する」ことに変化しました。

 

しかし、昭和20年に予科練を卒業したK青年が配属されたのは、特攻隊は特攻隊でも「人間魚雷回天」の部隊でした。予科練での厳しい航空訓練は生かされず、憧れのゼロ戦どころか飛行機にすら乗れなかったのです。

 

Kさんから聞いて初めて知ったのですが、特攻の出撃は強制ではなく、あくまでも「本人の志願制」です。つまり出撃命令に対して本人が希望しない限り、部隊の側はその隊員を出撃させられない決まりでした。

しかしKさんの証言によれば、実際のところは、上官が隊員を横一列に並ばせて「出撃命令が下った。出撃を希望する者は一歩前に出ろ」と命じるのだそうです。これでは「前に出ない」選択の方が難しいでしょう。

それにも関わらず、Kさんは回天の出撃命令を拒否し続けました。それは死ぬのが嫌だったからではありません。

Kさんは「自分はゼロ戦に乗るために、ただひたすら頑張って来た。自分はカミカゼで死ぬことを強く願っているので、たった一つしかない命を回天で失うわけにはいかない。一刻も早く、神風特攻隊に配置換えしてもらいたい。そうすれば喜んで出撃する」と上官に要求し続けたのです。

Kさん自身は語りませんでしたが、特攻隊に配属されながら出撃を拒否し続けるような隊員が、どれだけ「卑怯者」と罵られ、酷いイジメを受けたか想像に難くありません。

しかし、Kさんはカミカゼでの戦死という「夢の実現」のために主張を曲げることはなく、ついに終戦を迎えました。

もちろん、部隊の戦友の多くは回天で出撃し、戦死しました。

 

戦争が終わり、Kさんは子ども時代から当たり前のように思っていて、青春を貫き通した憧れ、つまり「軍人になってお国のために華々しく戦死すること」自体が、社会による洗脳以外の何ものでもなかったと初めて気づきました。そして「自分はずっと騙され続けていたのか。沢山の仲間はそれで死ぬ羽目になり、自分も死ぬところだった。絶対に許せない」という激しい怒りと悔しさに満ち溢れたそうです。

 

戦後、終戦記念日が近づくと、いつもかつての戦友たちから「靖国神社参拝」の誘いが来たそうですが、Kさんは「靖国神社には一歩も足を踏み入れたくない」といって断り続けたそうです。その理由をKさんは語りました。

「自分がキリスト教徒だからではない。もちろん、戦死した仲間たちのために祈る気持ちはある。しかし、その場所は靖国神社ではない。なぜなら靖国神社には戦友だけでなく、戦争を起こして自分たちを洗脳し、死なせようとした連中も一緒に祀られているからだ。何で東条英機なんかが祀られている神社で頭を下げなくてはならないのか。そんなことは死んだ仲間と自分自身への最大の侮辱だ」

 

「お国のために戦って死んだ英霊たちのおかげで今の日本がある」というのは、よく聞かれる言葉です。その言葉自体は必ずしも間違ってはいないと私も思います。またその「お国のために戦って死ぬ」ことが、戦死者本人の大多数の意思だったことも、Kさんの証言によれば疑う余地もありません。

しかし、肝心の本人の意思が、教育やマスコミを介した「社会の刷り込み」によって意図的に形成されたものだったとしたら、どうでしょうか。「特攻は国を愛する本人の尊い自発的な意思」というのは、確かに制度としてはそうだったかも知れませんが、実際は周りからそのように仕組まれていたのだとしたら、話は違ってきます。

もしKさんが他の戦友と同様、回天での出撃命令に素直に応じていたら、あるいは要求通りに神風特攻隊に配置換えになっていたら、私はKさんと出会っていないし、彼の経験談を聞き、このように感じることもありませんでした。

 

ロシアのウクライナ侵攻から5か月が過ぎましたが、侵攻を正当化するためのロシア側のフェイクニュースの実態が続々と明らかになっています。意図的な「社会の刷り込み」は80年前の日本だけでなく、今の世界でも変わらないということです。

せめて自分は感情論ではなく、いろいろな情報、いろいろな意見を客観的に見るようにして、「愛」とか「平和」とか「希望」といった普遍的な価値観だけを追求できるようにしたいと、この終戦記念日に改めて思います。

 

ちなみにKさんは戦後、旧農林省の技術官僚となり、害虫対策の分野で活躍されました。老後は90代になっても、昆虫採集、社交ダンス、俳句作りなど多彩な趣味を楽しんでいます。戦争から生かされた命を最大限充実させようとしているのでしょう。

人吉に転勤になってからKさんとは3年近く会っていませんが、96歳の今も元気だと人吉教会の信徒から聞きました。神がKさんをいつまでも守り給うことを祈っています。

鹿児島でのウクライナ避難民支援チャリティコンサートへ

昨日の土曜日は鹿児島の宝山ホールへ。
㈱宙の駅の本田さんが主催する、鹿児島県内のウクライナ避難民支援のチャリティコンサートを聴きに行くためです。

宝山ホール(右)

 

本田さんはウクライナ避難民に義援金を送るための活動を続けて来られているのは、このブログでも紹介しているとおりです。

私自身も鹿児島と熊本で、チャリティ講演会でお話しさせていただきました。

 

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本田さんのご両親はフォークソング愛好者で、それが高じて繁華街の天文館で「Rain」というフォーク喫茶を経営しています。

今回はその関係で、鹿児島のフォーク愛好者のお仲間が集まって演奏しました。

 

皆さん、私より少し先輩くらいの年代層でしたが、きっと学生時代からバンドを組んでやっていた方たちだったのでしょう。

60年代から70年代の曲ばかりでしたが、メンバーの皆さんのフォーク愛が伝わってきました。

演奏の様子

チャリティグッズの販売コーナー

 

本田さんは鹿児島出身で米国在住の正教徒のナオコさんのお友達で、私もナオコさんからの紹介で本田さんと知り合ったことも既に書いています。

いま、ちょうどナオコさんと息子のルカくん(10歳)が夏休みで鹿児島に一時帰国中で、コンサートにはルカくんもバイオリンで出演しました。

バイオリンパートのルカくん(右端)

 

宝山ホール鹿児島市内で唯一のコンサートホールですが、本田さんはそこを借り切ってよくやり上げたなと思います。

マスメディアも取材に来ていました。鹿児島県内限定のニュースかも知れませんが、こういう取組みは県民にしっかり認知してもらうべきですので、良いことだと思いました。

 

私自身からも、また信徒や私の友人から預かった義援金もありましたので、それらを寄付させていただきました。

日本で不自由な生活を強いられているウクライナの兄弟姉妹を救うために、少しでも協力できたらと願い続けています。