九州の正教会

日本ハリストス正教会のグレゴリー神父です。熊本県人吉市から情報発信しています。

天草と三角西港へ 知られざる歴史を勉強

昨日は宇城市三角西港で、ラフカディオ・ハーンについての講演会に出かけました。

私は高校時代、ハーンに傾倒していてほぼ全ての作品を原書で読みました。

九州に転勤して、彼が五高の教授時代に住んでいた家が「小泉八雲熊本旧居」として現存していると知り、見に行ったくらいです。

 

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午前中は上天草の大矢野島にある天草四郎ミュージアムに行ってみました。この大矢野島は四郎の出生地といわれています。

九州には戦国時代のキリシタン大名や、幕府の弾圧と隠れキリシタンなど、16世紀から17世紀にかけてのカトリック関連の歴史遺産がたくさんあります。もちろん、それらの存在は以前から知っていましたが、実際に自分が九州に転勤となり、間近に見るようになって一層関心が高まりました。

 

本土の三角と大矢野島の間は天門橋という橋で結ばれています。道は旧道と新道があるため、橋も二本並んでいます。

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天門橋

天草四郎ミュージアムは以前「天草四郎メモリアルホール」という名称でしたが、2年ほど前に改称しました。メモリアルホール(記念館)とは英語の用法としては間違っていないけれど、わが国では葬儀場と間違えられるからかな、と想像します。

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天草四郎ミュージアム

内部には天草でのカトリックの布教、キリシタン弾圧、島原の乱の経緯などに関する資料が展示されています。数が少ないのは不満でしたが、学術施設というよりは観光施設ですので仕方ないです。

ちなみに天草はキリシタン大名小西行長の所領であり、積極的に布教が行われて領民の多くが洗礼を受け、神学校も建てられていました。しかし行長は関ヶ原で敗れて東軍に処刑され、小西家は断絶してしまいました。

 

島原の乱は日本史の教科書には必ず載っている歴史上の事件であり、宗教弾圧と過酷な年貢の取り立てで不満を募らせた百姓が起こした一揆という説明がされています。確かにそれは背景としては間違っていないし、私も九州に来るまではそう思っていました。

しかし、実際に反乱の中心になっていたのは、改易されたキリシタン大名の家臣だった人々です。つまり戦闘のプロである戦国武士団が起こしたもので、住民の暴動どころかれっきとした「反徳川派による独立戦争」だと分かりました。

乱の最高指導者とされる天草四郎は当時16歳で、「盲人の目を開けた」「海の上を歩いた」などと噂され、キリストの再来と信じられたそうです。しかし彼の本名は「益田四郎時貞」。父の益田好次小西行長の家臣で、島原の乱の実質的な指導者でした。

つまり、好次は徳川との戦争にあたり、噂を流して息子を神格化し、キリシタンの庶民を戦闘員にしたのです。

反乱軍の最終目標は長崎を占領し、ポルトガルの軍事支援で独立することだったそうです。だから幕府は関ヶ原を上回る13万人もの大軍を投入し、ポルトガルと敵対するオランダに援軍を頼んだのです。もしポルトガル軍が到着するまで戦が長期化したら、国際的な代理戦争になっていたかも知れません。

こういう「知られざる日本史」を調べるのは、実に面白いです。

 

さて、ミュージアムを見てから三角西港に戻りました。

三角西港は明治20(1887)年に開港した国際貿易港で、2015年に世界遺産に登録されました。明治・大正時代の遺構が今も残っていて、19世紀にタイムスリップしたかのような素敵な場所です。

 

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開港した年、1887年に建てられた「旧三角海運倉庫」はカフェになっています。そこのテラスで、優雅な気分で昼食をしました。

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旧三角海運倉庫(1887年築)

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カフェのテラスからの眺め。石畳は開港当時のまま

 

13時から講演会。講師は上述の「小泉八雲熊本旧居」の坂本館長。会場は浦島屋です。

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浦島屋(1993年復元)


 浦島屋は1887年に建てられた洋風ホテルです。

ハーンは1893年7月22日、長崎旅行から熊本への帰りに船で三角に寄港し、このホテルで休息しました。その思い出を書いたエッセイが、彼の作品の中でも有名な『夏の日の夢』(The Dream of a Summer Day)です。

ちなみに浦島屋は日露戦争後の1905年、大連に移築されて建物が失われてしまいましたが、1993年にハーン来訪100年を記念して復元され、現在は貸ホールとなっています。

 

講演はハーンの生い立ちや人となり、日本に来た経緯などの概略から始まり、『夏の日の夢』や関連の文献に基づいた三角来訪当日のハーンの行動や、作品中に出てくる浦島屋の女将・山下ヨシの紹介など、知らなかったことばかりで面白かったです。

また、ハーンと直接関係ないですが、岩山を掘削して三角港に向かう道路を建設するにあたり、熊本監獄(跡地は現在熊本市役所)の囚人約300名を強制労働させたとの話もありました。

囚人を二人一組で鎖で繋ぎ、過酷な労働をさせた結果、労災事故や過労で69人が死亡し、近くに埋められました。彼らの遺骨は昭和8年に発掘され、合同墓が建てられて手厚く葬られたそうです。

「明治日本の産業革命」というキャッチフレーズ自体は間違っていないし、明治以降日本が経済大国の道を歩んだのも事実ですが、知らないところで闇の歴史があるんだなあと、改めて思いました。

 

歴史というのは有名な人物や事件だけでなく、名も知らぬ多くの人々の営みが形成するものです。私はもともと歴史好きですが、天草でも三角でもそういった「知られざる歴史」を知る機会ができて、一層歴史への興味が強くなりました。

令和2年7月豪雨災害犠牲者へのパニヒダ


今日は人吉ハリストス正教会で聖体礼儀を執り行いました。


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聖体礼儀に引き続き、昨年7月4日の豪雨災害から1年にあたって、犠牲になった方々を記憶してパニヒダを献じました。この時は熊本県内を中心に65名が亡くなり、2名が今も行方不明です。

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パニヒダのために妻が作った糖飯


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人吉の復興はまだこれからです。しかもつい1週間前、九州は再び豪雨災害に見舞われました。

報道によれば今は日本だけではなく、ドイツを中心にヨーロッパのライン川流域も豪雨と水害に襲われています。

コロナ禍も含めれば、さまざまな自然の猛威が次々と人間を苦しめているのですが、こういう時こそまさに「全能の神への信仰・良き将来への希望・苦しむ隣人への愛」を持ち続けられるかどうかが試されているのだと考えます。

 

次の1年で少しでも人吉の復興が進むよう、自分もできることを努めていきたいと改めて思いました。

人吉のトルストイ 北御門二郎

本日、7月17日は2004年にトルストイ翻訳家の北御門二郎(きたみかどじろう。以下「二郎」)が亡くなった日です。

北御門家は明治時代から人吉ハリストス正教会の信徒家庭です。二郎の義兄(姉の夫)の藤平神父は戦後30年以上、人吉教会の管轄司祭でした。

また、二郎の姪(兄の娘)が私の前任教会の信徒でしたので、以前から「きたみかど」という珍しい姓にはなじみがありました。

私の転勤先が、その北御門家の本地の人吉というのも、何かの巡り合わせかも知れません。

 

二郎の伝記としては、ぶな葉一著『北御門二郎 魂の自由を求めて』があります。本来これは小学生高学年向けに書かれたもので、字が大きくルビも振ってありますが、彼の生き方はむしろ大人にこそ響くものがあり、その意味では大人にも十分読むに耐える本と言えます。

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伝記『北御門二郎 魂の自由を求めて』

 

二郎は大正2年湯前町の大地主の家に生まれました。

その生家は今もあり、二郎の甥(兄の養子)が継いでいます。

2020年1月に訪ねましたが、老舗温泉旅館のような広大で立派な豪邸でした。もちろん大地主で大富豪だったのは戦前のことですが。

家の中にはキリシタン時代のものと思われるマリア観音像がありました。「明治になってからクリスチャンになったお宅なのに、なぜこのようなものが」と驚いた記憶があります。

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マリア観音像(北御門家所蔵)

二郎は熊本の旧制五高を経て昭和8年に東京帝大英文科に入学しました。しかし彼は当時のエリート教育に疑問を持ち続け、トルストイの文学、とりわけそこに示された平和主義に傾倒しました。

そしてトルストイ作品の当時の翻訳に納得できず、原書で読みこなしたいと考えて、昭和11年に東大在学のままハルビン渡航。半年間、現地の白系ロシア人から徹底的にロシア語を学びました。

その満州で彼は日本軍による現地人への残虐行為を知り、「王道楽土」のスローガンなど嘘であって、日本の満州進出はただの侵略戦争に過ぎないことを確信しました。

 

昭和13年4月、徴兵検査の出頭命令を受けた二郎は、たとえ自分が逮捕されて処刑されようとも自分が人を殺すことはできないと主張してそれを拒否しました。いわゆる「良心的徴兵拒否」です。

しかしその決死の思いとは裏腹に、重罪であるはずの彼の徴兵拒否は不問に付されました。伝記にはその理由は触れられていませんが、大富豪で村の名士である北御門家が何らかの手を回したに違いないと私は想像します。日中開戦直後であり、終戦末期のような切羽詰まった環境でなかったのが幸いだったのでしょう。

 

徴兵拒否の結果、二郎は東大を退学。彼はトルストイが指向した「罪のない生き方」として、農業で生涯を送ることを目指しました。そして生家を出て、湯前からさらに奥地の水上村にある北御門家の小作人の家に住み込み、農民となりました。

昭和16年にはその家の娘と結婚。電気も水道も来ていない家で、山の湧き水を飲み、ランプの灯りで自給自足の生活を続けました。

大地主の子で東京帝大に進むという、当時では(たぶん今でも)最高級のエリート人生の将来が約束されていたのに、軍国主義社会に与することはできないという一念で全て放棄してしまう…トルストイが家出してまで果たそうとし、死によって実現できなかった生き方を、自分が成し遂げようという強い意志が感じられます。

 

二郎は50代になってから、農業の傍ら再びトルストイ作品を原書で読み直しました。そして同人誌に、当時の『アンナ・カレーニナ』の翻訳の誤訳を七百数十か所指摘したことが東京新聞のコラムに掲載され、一種のセンセーションを起こしました。

そして批判するだけでは意味がないと考えた彼は、百姓仕事の合間にトルストイ作品の私訳を始めました。

 

昭和51年、二郎が63歳の時に、県立宇土高校で版画集『イワンの馬鹿』を自費出版することになり、二郎が訳文を書きました。

それがエフエム中九州社長の沖津正巳氏の目に留まり、二年後に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』の北御門訳トルストイ三部作の刊行に至りました。ロシア語もロシア文学も専門に学んでいない一人の農夫が、65歳で文学界に認められたのです。

 

二郎はその後も農業の傍ら、80代まで訳書を刊行し続け、91歳で天寿を全うしました。

 

二郎の家はご長男が継ぎ、今も農業を続けておられます。私は着任翌月の2019年11月に訪問しましたが、大変な山奥で驚きました。

家にはさすがに電気は引かれていましたが、今も水道はなくて水は山の清水。暖房は薪ストーブでした。

米や野菜だけでなく、シイタケや茶など、いろいろなものを栽培して生活されていました。トルストイから二郎が受け継いだものを、自分も継承するという強い意志を感じました。

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北御門二郎の長男ご夫婦と共に

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北御門家で栽培しているシイタケ

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紅茶も自家栽培したもの


また二郎の二女のKさんは東京で結婚した後、ご主人と書店を開業。40年ほど前に阿蘇地方の西原村に移り、児童書専門店の「竹とんぼ」を家族で営んでいます。

上記の伝記もこの店で購入しました。

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西原村の児童書専門店「竹とんぼ」

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Kさんご夫妻と共に

都会ならともかく、こんな田舎で専門書店なんてと驚きましたが、自然の美しい場所で多感な子どもに良書を提供したいという思いが伝わってきました。

 

少年時代に出会ったトルストイ文学の精神が北御門二郎の人生を変え、さらにその精神がこの熊本県で子孫にも受け継がれていることに驚嘆します。その精神とは「富を追求したり社会におもねったりせず、良心に基づく平和な生き方を追求」することです。

トルストイ自身は当時のロシア正教会から破門を宣告されていましたが、指向していることはキリスト者として理想的、とりわけ正教会の修道者的な生き方そのものです。

都会から遠く離れた人吉球磨で、明治時代から正教信仰を継承してきた北御門家の人々が、トルストイの精神をも受け継いでいることに神の計らいを感じています。

カラヤンについて

火曜日に東京で父の墓参に行ったと書きました。

父の実際の命日は今日、7月16日です。

 

7月16日に亡くなった人物で最も有名なのは、たぶん指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンだろうと思います。

カラヤンが亡くなったのは1989年。そのちょうど20年後の2009年7月16日に、私の父が亡くなりました。ただの偶然であって、父は音楽に縁もゆかりもないですが(笑)

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ヘルベルト・フォン・カラヤン

ちなみにカラヤンが亡くなったわずか1年後の1990年10月、レナード・バーンスタインが亡くなっています。私はクラシック音楽を聴くのが好きなのですが、こんなに立て続けに超大物の巨匠がいなくなってしまい、クラシック音楽の世界はどうなっていくのかと思った記憶があります。

そもそも89年は11月にベルリンの壁が崩壊し、東欧の「共産主義体制」自体が消滅に向かっていて、世界がこれからどうなるのかと思われていました。

また、私が結婚したのはカラヤンが亡くなった2か月後の89年9月。長男が生まれて初めて人の親になったのは、バーンスタインが亡くなった2か月後の90年12月でした。今から思うと、自分自身の人生もこれからどうなっていくかなと、初々しい新婚生活でウキウキしていた時期でもあります。

社会面でもプライベートでも、いろいろな意味でこの時期は思い出深いものがあります。

 

さてカラヤンは多くの録音を残しており、私も彼の指揮による演奏のCDをたくさん持っています。カール・ベームオイゲン・ヨッフムのような同時代のドイツ人の指揮者は、ベートーヴェンブラームスブルックナーなどのドイツ・オーストリア系の作曲家の作品ばかり演奏しているのですが、カラヤンはかなりレパートリーが広いです。

しかし私自身の好みからいうと、カラヤンの演奏は速さがインテンポすぎて、聴いていてあまり面白みを感じません。音楽評論家でもないのに偉そうですが(笑)

 

彼の生涯最後の録音は亡くなる3か月前にウィーン・フィルを指揮して演奏したブルックナー交響曲7番です。

カラヤンは外見にもこだわりがあったと言われており、実際指揮する立ち姿はなかなか美しいものがありましたが、さすがに晩年の数年間は映像を見てもヨボヨボで、ちょっと痛々しい姿でした。(最後の演奏の映像は格好良かった頃の写真の固定画像であり、実際の演奏の時の映像は残していない)

他の指揮者も晩年で体が衰えてくると、総じてテンポがもたつき気味になります。

しかし、このカラヤン最後の演奏は比較的早めの淡々としたテンポです。個人的には「淡々としたブルックナー」というのは好きではないのですが…


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しかし、カラヤンの指揮によるチャイコフスキー作品の演奏だけは、とても歌心があって引き込まれます。よほどチャイコフスキーの作風がカラヤンの好みに合っているのではないかと思います。要するに指揮者の感情移入の度合いが、他の作曲家の作品を指揮する時と極端に違うように感じられるのです。

ですのでチャイコフスキーのオーケストラ作品を聴くときだけは、カラヤン指揮の録音を選んでいます。

 

ご紹介するのはカラヤンが亡くなる前年の88年5月、サントリーホールベルリン・フィルを指揮して演奏したチャイコフスキー交響曲6番「悲愴」です。カラヤンは何回も来日していますが、これは日本での最後の演奏ということになります。


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カラヤンチャイコフスキー…私の中ではいつも最高の組み合わせです。

帰宅まで遠い道のり

今日は午前中に自宅を出発し、羽田空港へ。


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13時半発の飛行機で鹿児島空港に向かいました。到着予定時刻は15時15分。

 

しかし飛行機の着陸10分前にトラブル発生。

鹿児島空港の滑走路に落雷があり、空港が閉鎖されたので、羽田に引き返すというのです。

そのまま飛行機に乗り続け、17時に羽田に到着。次の便に振替え搭乗となりました。鹿児島行きの最終便です。

私のような振替え乗客の対応でその便の出発も遅れ、飛び立ったのは18時半近く。鹿児島空港に着いた時は20時を過ぎていました。

 

羽田で飛行機に搭乗してから鹿児島で降りるまで7時間です。7時間!

海外旅行に行くような感覚です。

 

熊本方面に行くリムジンバスは既にないので(そもそも1日に3往復しかない)、妻に電話して人吉から車で迎えに来てもらうことにしました。

しかし、空港内の飲食店は20時で営業終了のため夕食も取れず。

しばらく到着ロビーで待機しましたが、21時には建物自体が閉まってしまうので、最終のリムジンバスが行ってしまって暗くなったバス乗り場で妻が着くのを待ちました。

 

結局、帰宅した時は22時を過ぎていました。

 

行きも豪雨に祟られましたが、帰りまでもとは。

神の意図を計りかねています。

父の墓参へ

昨日は教団教職者の定期健診を受診してから、都内の自宅へ。

末娘は人吉に来させ、他の三人の子どもたちはとっくの昔にそれぞれ独立しているので、今は家には86歳の母しか住んでいません。

母は全く健康で、運動能力も私よりあるので(笑)、今のところ心配はありません。自分も妻も、昔の同級生と話していると親の病気や介護の話題ばかりなので、その意味では親がいつまでも健康なことは、ありがたい恵みだと思っています。

 

昨日は天気が不安定でしたが、今日は晴れたので父の墓参に行くことにしました。

父が亡くなったのは2009年7月だったので、命日には数日早いですが十三回忌となります。新暦のお盆とも重なっています。

ちなみに妻はクリスチャンホームに生まれましたが、私の方の親族にクリスチャンは誰もいません。

 

墓は府中市の東郷寺という寺にあります。

戦時中、かつて東郷平八郎元帥の別荘があった土地に、戦死者を葬るために建立された寺です。

我が家では伯父(父の兄)が戦死したので、祖父がここに墓を求め、今に至っています。

 

山門はとても立派です。黒澤明が映画「羅生門」を撮影した時、ロケ地の一つにこの山門が選ばれたことで有名です。


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門前の枝垂れ桜も有名です。大きな木が何本もあって、満開になったらさぞ壮観でしょう。しかし、桜の時期に亡くなった親族はいないので、私自身は残念ながら花を見たことはありません。


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建物も重厚です。


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新しい花を供えてお参り。


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こういう仕事をしているくせに、自分の先祖の墓に詣でたのは6年前の父の七回忌が最後だったので、それは反省すべき点です。

 

さて、この寺は日蓮宗ですが、創建当時から戦死者とその子孫には宗教不問で墓を提供してきました。神仏を信じない母もクリスチャンの私たち夫婦も、将来ここに眠ることで考えは一致しています。

 

「クリスチャンの墓がお寺にあるなんてとんでもない」という人は結構多いのですが、そういう人は信者どころか司祭である私が寺の墓に入るなんて聞いたら、怒り狂っておかしくなってしまうかも知れませんね。

しかし、その人は信仰の意味を履き違えています。信仰は生きている本人の心が決めるのであって、墓の所在地で決まるのではないからです。

私は法要に参列しても、御題目(南無妙法蓮華経)は異教の祈りですから唱えませんし、お寺の側も檀家(正確には墓の所有者)の個人の内面の信仰までは介入しない。何の問題がありますか?

大事なことは相手が生者であれ死者であれ、また宗教が何であれ、相手を愛し、相手のために自分の信じる神に祈ることではないでしょうか?

そういう本質を忘れてはなりません。

 

まあ、親の墓参りを6年間もすっぽかした私が偉そうなことは言えないのですが(笑)

豪雨災害と全国公会

昨日と今日の2日間、東京復活大聖堂教会(ニコライ堂)で教団の年次総会である全国公会が開催されました。

 

昨年は公会の直前、そして今年は公会当日と、2年連続で人吉は豪雨に見舞われました。

 

鹿児島県内は大変な被害があり、高速道路がずっと通行止めでしたが、球磨川は氾濫に至らなかったのが不幸中の幸いでした。

信徒の安否確認をした結果、全員の無事を確認できて安堵。全国公会でもその旨を報告しました。

 

15時半過ぎに解散となりましたが、無事に終わって良かったです。


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